関登久也が語る宮沢賢治9

関登久也氏は、宮沢賢治と同郷で氏の生前を知り、尚且つ賢治氏に関する細々とした随筆を残しています。今回は、法華経で始まりいかに賢治氏が法華経を実践するにあたって、自分の性欲について心を砕いていたかが解る内容となっています。

以下、『』内の文章は1941年に十字屋書店から発行された関登久也「北国小記」より宮沢賢治関係の随筆のみ、現代語訳した上、引用しております。宮沢賢治の研究の一助になれば幸いです。

『 法 論(二)
 私の友人光田紅葉は先祖からの真宗の信者でした。念仏者は無間地獄へ落ちると聞いておりますのでどうかしてこの光田にも法華経を教えたいと私もどんなに骨折ったかしれません。しかるに光田はなかなか強情で、私の言うことを聞かず親鸞上人と共に地獄へ落ちましょうなどとてんで問題にしませんので、ある日私は光田をぐいぐい引っ張って賢治氏の所へ連れて行きました。賢治氏は光田と二三語を交わしていましたが法華経方便品に、「十法仏土ノ中ニハ唯一乗ノ法ノミアリ二モナク三モナシ、仏ノ方便シテ説ケルヲ除ク。」とかあるいは法華開経「無量義経」に、「衆生ノ性欲不同ナルヲ以テ種々ニ法ヲ説クコトハ方便力ヲ以テス、十余年ニハ未ダ真実ヲ顕ワサズ。」ということなど、仏語を基準にして阿弥陀仏を信仰することの不可なることを諄々として説きました。光田は当時私と同じく二十歳前後の青年だったので聞いている態度もよく前の安部先生の時とは違って私も安心して光田をつれて来て良かったと思いました。これは法論とはいえませんけれどもまづそれに類した事の一つの思い出でございます。

 童 貞(一)
 賢治氏は性欲というものをどういう風に取り扱ったかという事は賢治氏を語る上において中々興味のある問題だと思います。ここではもっぱら理論をさけて賢治氏にふれた性欲についての思い出を話そうと思います。賢治氏はたしかに童貞で生涯を終えました。しかし性欲その事については十二分の思索を経ていた事は疑いもありません。
 当時農学校は稗貫農学校と称せられ、館(たて)の今の花巻共立病院の所に立っていた頃ですから多分賢治氏二十五歳前後の頃だと思います。

 夜分何か用事があって宿直の賢治氏を訪ねましたら、しんとしていた校内の遠くの方で凜々とお経を読む声が聞こえました。折角読経のところをお気の毒だと思ったが、戸を開けて入ると暗い教員室の方から賢治氏は顔貌を輝かせて出てまいりました。それから宿直室へ行って色々話しをしましたら、話しはたまたま性欲ということに及び、賢治氏はその時こんな事を言いました。郡役所の人や又同僚の先生なども相当遊びの達人のつもりでいるから面白い。そこで私は貴方がたが町の遊郭に何度くらい行っている。五十回くらいは行きましたか、と言うと皆たまげて後は性欲の話などはしなくなる。だいたい私はそういう本をかなり読んでいるし、今読んでいるのはこれはドイツ語の原書だが、と言って大分大冊の本を私に見せながら、こういうものをかなり読んでいるからその方面の話しになると私の方はよっぽど上手です。性欲を自分で満足する方法も知っているが、唯そういう事をしないだけの話しです。などと言って夜を更かしました。かつて賢治氏からそういう事についての話しを聞く事のなかった私は意外な感じもしましたが、かえってまた賢治氏の真面目にふれ得たような喜びを感じました。

 童 貞(二)
 ある朝館(たて)の役場の前の角で旅装の賢治氏に会いました。それは前の話より余程後の事ですが多分賢治氏三十歳前後の事だと思います。
 顔が紅潮して如何にも溌剌とした面持ちでした。どちらへおいでになったのですか、ときくと岩手郡の外山牧場へ行って来ました。昨日の夕方出かけて行って一晩中牧場を歩き今帰ったところです。性欲の苦しみはなみたいていではありませんね。そう言って別れました。
 賢治氏が童貞を護るための忍辱(にんにく)の行はなかなか容易ならざるものだと感じ、深い尊崇の念さえ湧いて来ました。』

忍辱(にんにく)・・・恥を堪え忍び、心を動かさないこと。

関登久也が語る宮沢賢治10へ続く

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