11/18雑記 坂口安吾の「教祖の文学」について

今月は仕事が何かと忙しく、中々続きをやる時間が取れないため、個人的な「教祖の文学」におけるメモも含めた雑記となっております。

坂口安吾が書いた「教祖の文学」は、批評家である小林秀雄は人生を作る情熱を失い、彼独自の見えすぎる目をもって鑑定人となり、ひいては教祖になったという、安吾独特の小林秀雄論です。この小論は、そのままでもさらっと読むことができますが、事前にいくつか小林秀雄の作品も読んでおくとより深い理解を得ることができます。まずは、小林秀雄側から。

「平家物語」・・・1942年に発表された、平家物語における歴史的考証及び随想。
「当麻」・・・平家物語の同年発表された、世阿弥の随想及び考察。
「徒然草」・・・1942年に発表された、兼好法師についての考察。
「西行」・・・徒然草と同年に発表された、詩人西行の足跡と代表的な句の洞察。
「実朝」・・・1943年に発表された、詩人実朝の歴史的考証、並びに句の鑑賞。
「モオツァルト」・・・1946年に亡くなった小林秀雄の母に対して捧げられた随想。

他にも、ドストエフスキー関連も読めば完璧ですが、ありすぎる上に長いので深く理解するに当たって、これだけ読めば安吾が何を言いたかったかよく解るようになってきます。
逆に、安吾側で読んでおくと、安吾の心理が理解できる作品があります。

「続戦争と一人の女」・・・1946年に発表された「戦争と一人の女」の続編。

上記の作品を読むと、教祖の文学に登場する「小説なんて、たかが商品であるし、オモチャでもあるし、そして、又、夢を書くことなんだ。」という一文が持つ意味を深く理解することができます。

1945年(昭和20年)に終戦を迎えるまで、戦中は全く以て小説家としてふるわなかった坂口は、当時の検閲をくぐり抜けた、小林秀雄のこれらの随想を読んでは、考えを巡らしていたのではないかと思われます。彼の考えは、戦争が終わってから、実に二年後に形になりました。

「教祖の文学」自体は、1946年に小林秀雄が水道橋のプラットフォームから落ちたことを受けて、書き始められています。これは、8月の出来事なので、この年の5月に小林秀雄の母精子さんが亡くなり、彼としてはまだ悲しみが抜けきらない時であったかもしれません。

中原中也の母である、中原フクさんが共著「私の上に降る雪は――わが子 中原中也を語る」の中で、1949年に小林秀雄が山口県に招待されて講演した際、彼を囲んでの宴会が夜、ホテルで開かれますが、何と一人で勝手に抜け出し、フクさんに会いに来ます。そして、この夜は中原家に泊り、フクさんと色々な話しをされたそうです。この時、小林秀雄はしきりとフクさんに対して「知らん間に、おっかあが死んだ、おっかあが死んだ。それを知らなくて、ほんとにすまなかった」そう、涙を流しながら繰り返し話しをされたそうです。この事を鑑みてみると、彼の母親に対する並々ならぬ愛情を感じますね。

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