萩原朔太郎が語る谷崎潤一郎と正宗白鳥2

昭和15年に河出書房より出版された萩原朔太郎の「阿帯」なる随筆集には、「思想人としての谷崎潤一郎と正宗白鳥」と題された随筆が掲載されています。内容としては、萩原朔太郎が谷崎潤一郎氏を何故、思想人として見るかという説明をしております。

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ここでは上記の随筆を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。萩原朔太郎と谷崎潤一郎、正宗白鳥の研究の一助になれば幸いです。

『かつての所謂左翼作家の如きも、その借り物の理論闘争を捨てた今日では、もはや何事も思想し得ず、旧態依然たる伝統の日本的作家になってしまった。彼等もまた他と同じく、真の思想を所有して居なかったのである。こうした日本の文壇において、二三の例外的な作家を見ることは、何よりも、興味深い問題である。私はその稀な作家の中から、特に谷崎潤一郎氏と正宗白鳥氏とを発見する。谷崎氏について言えば、今日の日本の文壇で、彼ほどにも西洋臭く、西洋人的タイプの文学者はいない。という意味は、人生に対して情熱的な祈祷をもち、自己のイデーを追うことにおいて、あくどいまでも執拗である点を指したのである。西洋人と日本人との相違点は、一言で言えば「主観的」と「客観的」ということに尽きるかも知れない。西洋の作家たちは、徹底的にエゴが強く、主観の欲情するものを決して捨てない。彼等は自己の満足が充たされるまでは、永久に狂気のごとく、人生のどん底まで執拗に探し歩いているのである。フローベルのように、純客観描写のリアリズムを構えた作家も、本質的には主観に憑かれた人であった。反対に日本の作家は若い時から既に客観人になり切ってる。彼等の場合では、エゴが対象の中に融化し、主観人としての意欲が、自然人生の環境する世界において、客観化することを理念している。したがって彼等には、モノマニア的狂気や情熱がない。日本人の情熱というものは、芭蕉がその俳句道において示したごとく、幽玄閑寂の境の中に、静かに人生の煩悶を噛みしめながら、寂しく孤座しているような情熱である。

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 最近の谷崎氏は、こうした日本人的な心境を理念とされ、そうした物の讃美と憧憬を書いてるけれども、おそらくは趣味の変遷を語るにすぎず、本質においての個性は昔ながらに依然として西洋人臭いものである。(たとえば「春琴抄」のごときも、地唄の三味線によって奏されたところの、基督教的モノマニアの文学である。)しかしこの小論において、自分が谷崎氏に興味をもつのは、氏がその小説以外の文学において、卓越せる思想人としての風貌を示している点である。倚松庵随筆や、陰影礼讃や、文章読本やを初めとして、氏の多くの随筆を読んだ人は、氏がいかに敏鋭叡智の知性人であり、いかによく人生を情熱しながら、いかによく事物の本質を直観するところの、真の意味の哲人であるかを知るであろう。この点においても氏は日本の文壇に稀らしく、ジイドやフローベルのごとき西欧の文学者と、素質を一にしているところの作家である。真の文学者は、素質上での哲人でなければならぬというゲーテの言葉は、それらの西欧作家に当たるように、谷崎氏にもよく当たっている。すくなくとも日本の文壇には、谷崎氏のごとく生活を思想し、併せて文学を思想している作家はいない。そして此処に思想するという意味は、抽象理論を弄ぶということではない。作者の強烈な主観によって、人生を体験から直観し、これを自己のドグマによって、批判的に認識づけるということである。谷崎氏のエッセイは、悉く皆主観の強烈なドグマである。しかもそのドグマの中にいかなる学者や思想家も知らないような、驚くべき生きた心理を掴み出している。こうした手品は、単に「考える」だけの人には出来ない。「感ずる」だけの人にもできない。その両方を合算して、その上にも、主観の強烈な意欲を押し通す人でなければ不可能である。ところで日本の文壇人には、概してその「主観の強烈な押し」がないのである。そのため日本的な作家の知性は、彼等を真実への探求に導かないで、批判なき身辺雑記の低徘に紛らしてしまう。』

イデー・・・ギリシア語のイデアのドイツ語訳。観念、理念と訳される哲学用語。
モノマニア・・・一つのことに異常なまでの執着を持ち、常軌を逸した行動をする人。偏執狂(へんしゅうきょう)。

萩原朔太郎が語る谷崎潤一郎と正宗白鳥3へ続く

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