徳田秋声の折鞄(おりかばん)5

小説を入力してみようチャレンジ、引き続き昭和3年に改造社から出版された現代日本文学全集 第18篇 徳田秋声集から「折鞄」に挑戦中です!ここでは左記の小説を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。徳田秋声の研究の一助になれば幸いです。

『元日の朝が来た。
 融は少し寝過ぎて、時間がおそかったけれど、約束がしてあったので、電車で雑煮を祝いにわざわざ家(うち)へ帰った。雑煮は彼自身の好みで、いつもそれに決めているので、それでないと寂しかった。
 家(うち)へ帰ると、子供たちの多くは、もう屠蘇と雑煮を祝ったあとで、台所も一片づけすんだところであった。妻はちょっと億劫そうな顔をして、彼の来たことを、そう悦ばなかったが、ガスに点火して支度に取りかかった。
「どうしたんだ。又子供と喧嘩でもしたのか。」融は不平そうに言った。
 雑煮の鍋をしかけている彼女の顔が不断でもよくあるように、その時も淀んだ色に少しむくんでいた。でも、融は気にもかけなかった。
 彼女もいくらか元気づいて来た。
 風呂から上がって来た、十七になる愛子が、今にも消え入りそうな呻吟声(うめきごえ)を立てて、縁側まで来て、ぐたぐたと倒れた。融はあわてて妻を手伝って寝床へ抱きこんで介抱した。
「のぼせたんですよ。」妻はそう驚きもしないように言った。
 愛子はまもなく顔色が出て来て、口もはっきり利くようになった。そこへ年始の客が来た。妻は愛想よくそれを迎えて、屠蘇の道具やお重のものなどを運んで煮ものを取りわけたりした。部屋は例年のとおりに、狭いなりにきちんと片づいていた。
 その客が帰ったのをきっかけに、融もホテルへ帰ろうとした。
「え、貴方は忙しいんだから。」彼女も言った。
 融は彼女が疲れているのに気づいていた。帰ってしまえば、後で寝るであろうことを期待しながら、第二番目に来た回礼者(かいれいしゃ)と前後して、表へ出た。そして忘れた薬や何かを取りに、二度ばかり小戻(こもど)りしてから、急いで大通りへ出た。
 ホテルへ帰ってみると、Sー氏は卓子(テーブル)の前にかけて、一心に何か書きはじめていた。顔が緊張していた。融は部屋へ帰って、雑誌を読みはじめた。
 その晩彼はSー氏夫妻と、帝国劇場へ行ったが、何か落ち着かない気分であった。愛子がもしいけないようなら、ホテルへ電話がかかるだろう。そうしたら此処へもしらしてくれるだろう。彼はそんな事を考えながらも、いくらか春らしい劇場の空気に浸っていた。
 翌朝彼はけたたましい電話のベルに呼びさまされた。劇場から帰った彼は、疲れてぐっすり寝込んでしまったので、あわただしいそのベルの音(ね)の震動を耳にしながら、やや暫くそれがどこで鳴っているのかを意識しなかったが、ふと愛子のことが、仄かに頭脳(あたま)に浮かんで来たので、慌ててベッドからすべりおちるようにして、卓上電話にかかって行った。
「もしもし。」彼は夢現のなかで呼びかけた。
「お父さんですか。僕ですが…お母さんが悪いんです。どうも脳溢血らしいんですが…。」
 融はにわかに暗い気持ちになったが、脳溢血という言葉をそのままに受容れることは困難であった。
「じゃね、今直(います)ぐ帰るから、誰か好いお医者を一人呼んでおいてくれ。」融はふるえる声で、好い医者に力をいれた。
 融は大急ぎで、しかし割合に落ち着いて、着ものを着たり、折鞄に紙や万年筆を仕舞い込んだりして、別れをSー氏に告げに行った。Sー氏はもう床(とこ)を離れて、窓ぎわで仕事に熱中していた。
「家内が病気だそうで、僕これから帰ろうと思う。」融がいうと、
「そう。すっかり引揚げるですか。」Sー氏も無論それほどの事とは思わないらしかった。
 融はそれから又一旦部屋へかえって、下へ電話をかけて、会計と自動車を頼んでから、外套や襟巻をして、力ぬけのした足で、エレベーターの乗り場へ出て行った。
 下へおりると、Sー氏夫人が、もう其処へ出ていて、口数はきかなかったけれど、悲しげな目をして彼の降りてくるのを待っていた。融は滞在をほぼ一週間ときめて部屋代を払ってあったので、残り分の金を受け取って、しばらく自動車の来るのを待っていた。
「小型がよろしいんでしょう。」夫人はそう言って、二度ばかり出口までおりて見たりした。
 静かな朝の町に、初荷(はつに)の荷馬車や、貨物自動車が動いていた。融は苦い経験があるので、病気というと医者の不快を買うまdめお、大騒ぎをする癖がついていた。で、その時も脳溢血という言葉を、そのまま妻の現在の病気に引き直して考えることは出来なかった。それは劇場や電車のなかなぞで、真っ青になって仆(たお)れたことが、若いおりから三四回もあったからで、今度も多分それだろうという気がしたが、しかしそれにしても何時(いつ)ものより重いという感じが強かった。そして町が春気分に輝いていただけに、彼の気分も一層暗かった。』

徳田秋声の折鞄(おりかばん)6へ続く

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