徳田秋声の尾崎紅葉1

小説を入力してみようチャレンジ、今回から昭和3年に改造社から出版された現代日本文学全集 第18篇 徳田秋声集から「尾崎紅葉」に挑戦を始めました!ここでは左記の伝記を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。徳田秋声と尾崎紅葉の研究の一助になれば幸いです。

『 前置き
 この研究では先生という敬語を暫く一切抜くことにしておこうと思ったが、矢張(やっぱり)始末が悪いので、先生としておく。しかし師弟としての立場から離れて見たいと思う。その天は縁故の人々に御慰恕(ごいうじょ)を願いたい。勿論、師弟としての個人的な心持ちを忘れている訳ではない。で、効用研究と言っても、僅か三十七年の生活で、芸術家としてこれから人生観賞の目も開き、人間としての自覚も出て来ようという時に亡くなったので、その短い生涯には大して記録すべてきことのあろう筈がない。勿論それにしても驚くべき大人(たいじん)ぶった人であったと同時に、時代の残して行った偉大な作家であったために痕跡は一般的にかなり大きい。ただ文字通りの過渡期の人であったところから、所謂内面的生活は浅かったし、文学的な内容が比較的薄いので、常識的には随分偉大なものではあったけれど、評論家の筆にかかると、いつも人気ほどには買っていなかったように思われる。それかと言って通俗作家と称するには、余りに一種の芸術的天分(てんぶん)のゆたかなもので、自分はその文章、ないしは描くことの巧みなことに至っては、言語類例がないほどの才分に恵まれていたし、努力も惜しまなかったと思う。その点だけでも兎に角明治文壇の偉大な存在である。ただ主観問題になって来ると、兎角の議論を生ずるのである。
 何にしても先生を論ずる材料は少ないと言っていい。自分は生立ちから初めて三十七年間の作家生活について、概観を述(の)べ、それから徐(おもむろ)に作品に入ろうと思う。これを述べるに当たって、松原至文(まつばらしぶん)氏の「明治文豪伝の内(うち)尾崎紅葉」に負うところ最も多いことを明らかにしておきたい。

 生立ち
 尾崎徳太郎(のちに紅葉)は実に慶應二年十二月の誕生で、芝中(しばなか)門前で産湯をつかったのである。三歳で母に訣(わか)れ、四歳のとき神明町(しんめいちょう)なる母方の祖父母(荒木氏)のもとに引取られ、懇切厳格なる祖父に育てられた。(筆者などは真に慈愛の深い老体であった)純然たる神明(しんめい)ッ子であったが、荒木氏は多分士族であったろうから、あながち下町(したまち)ッ子ともいえない気分はあった。実父は彫刻の名人で、当時のデカダンであったらしいが、紅葉にも芸術家としてはなんらか遺伝はあったものと見ていいかも知れないが、育て親が几帳面な荒木氏であったため、人としては実に常識円満な普通道徳の実践家であった。洒落気満々たるものであったことは無論で、それが氏の芸術のほとんど重(おも)なる要素であったと言ってもいいくらいであるが、実際生活にかけては実に堅気な江戸ッ子の典型であったと言ってよかろう。田舎ものの自分などは、この洒落気(しゃれき)沢山(だくさん)の先生の面(めん)には余り触れてもいないし、興味もなかったけれど、先生も「我楽多文庫」時代の楽天的な戯作者肌の気分は、後年に至って次第に無くなって来たのである。
 明治六年の七月七歳で寺子屋へ入ったが、師匠というのが久我氏(くがし)であった。文才も豊かであった。神童とさえ言われたそうである。腕白ではあったが臆病で、且つ性格が几帳面であった。十歳前後には友達を集めて新聞ごっこなどして遊んだというが、それが二つ折りのもので、荒木氏がその当時購読していた読売新聞もまた二つ折りだったと言う。先生は後に読売新聞の記者となり、また小説を受け持って(後に小説専門で出社しなかった)生涯の傑作のほとんど読売新聞の読み物であった。読売新聞への入社は、多分饗庭篁村(あえばこうそん)氏の後ではないかと思うが、入社の初めは雑報もたまには書いたものと見てよかろう。その証拠には筆者が博文館の編集にいる頃、先生は社の帰りとみえて、小倉の袴に薩摩絣(さつまがすり)の書生羽織、手に小汚い鞄を提げて、鬢髪(びんぱつ)も蓬々(ほうほう)として、「伽羅枕(きゃらまくら)」や「不言不語(いわずへたらず)」などの婉美(えんび)で洒落た作品を書く人とは受け取れないくらい荒いところがあった。勿論その時の印象で平常を律することは出来ないけれど、兎に角その頃のあの汚い新聞社の編集室には相応しいものであったかも知れない。要望は異常で、目は大きく、口元は締まり、色は浅黒く、四肢はのびのびして、芸術的結社の頭領として、明治新文壇の闘将として、実に覇気満々たる概(がい)があった。自分は今東光(こんとうこう)氏が何処かにちょいと先生に似た面差しをしているので、懐かしく思うことがあるが、それのもっと線の大きい雄壮なものと見ていい。勿論大変違ってはいるが、それでいながらちょっと似ているものである。
 話しがしばしば岐路(きろ)へ入るけれど、思い出すままに挿入するのだから、ゆるしてもらいたい。
 十三歳の時、田安御門外(たやすごもんがい)の中学に入り、在学二年にして、愛宕下仙台屋敷(あたごしたせんだいやしき)の幕府の儒岡鹿門(じゅおかろくもん)氏について漢学を修め、傍らまた明治十五年から三田英学塾(みたえいがくじゅく)に通った。
 明治十七年には大学の予備門の私見に登第(とうだい)し、四年間そこに通ったが、その頃から芸術欲求が鬱勃(うつぼつ)として禁ずることができなかったらしい。同志六七人と計って文友会(ぶんゆうかい)なるものを起し、先生は縁山(えんざん)と号して詩文を作った。縁山は誕生地芝の三縁山(さんえんざん)にちなんだもので、後の雅号紅葉は紅葉山(こうようさん)から出ている。次に凸々会(とつとつかい)というのがあって、それは詩文よりも運動遠足が主であった。先生はかなり腕白で、運動が大好きであったようである。』

徳田秋声の尾崎紅葉2へ続く

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