徳田秋声の尾崎紅葉4

ちょっと更新の間が開いてしまいました!年度末が近いので年末とはまた一味違った忙しさがありますね。ひき続き小説を入力してみようチャレンジ、只今、伝記に挑戦中です。昭和3年に改造社から出版された現代日本文学全集 第18篇 徳田秋声集から「尾崎紅葉」に挑戦中です。ここでは左記の伝記を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。徳田秋声と尾崎紅葉の研究の一助になれば幸いです。

『 「色懺悔(いろざんげ)」についで、「巴波川(うずまがわ)」というのが、これは好個(こうこ)の短編小説である。「拈華微笑(ねんげびしょう)」、「此ぬし(このぬし)」なども、瀟洒な好(こう)短編であるが、「夏痩(なつやせ)」、「二人(ににん)女房」などになると、もう本格的な立派な大作である。二十四年「伽羅枕(きゃらまくら)」という物語風の作品が紙上に連載されるに及んでは、その麗筆(れいひつ)たちまち満都(まんと)の子女を魅(み)し、「夏小袖」「三人妻」とう続いて、また江湖(こうこ)に喧伝されるに至った。
 「三人妻」、「不言不語(いわず かたらず)」、「冷熱(れいねつ)」、「隣の女」、「青葡萄」、「八重襷(やでだすき)」など、今でもその名は一般子女の耳に懐かしい響きを与えるであろう。その中には翻案ものもあるが、先生の腕にかかると斧鑿(ふさく)跡は少しも見えないで、渾然珠(こんぜんたま)の如き日本好みの芸術品となってしまうのである。
 有名な「多情多恨(たじょうたこん)」は明治三十年の作で、「我家の小説は米の飯なり」という抱負をもって書かれたもので、先生はその頃は漸く三十を越したばかりだと思われるが、絢爛の境(きょう)を通りこして、平淡(へいたん)の味を欲するに至ったものと見てよかろうし、これを大きく言えば、人生味(じんせいみ)というものが、漸く出て来たのだと言うことも出来よう。それ故この作品は先生の製作品のなかでは、もっとも自然なもので、艶麗(えんれい)な文章のてらいは先ずないと言っていい。
 「多情多恨」で人間の日常生活を描き、平淡の境(きょう)に入った作者が、どうした動機でか、一代の傑作とうたわるる「金色夜叉」という大きな山に取りかかったのは、すこぶる注目に値する。筆者はいささかその時の状況を知っているが、慌ただしい師走の巷(ちまた)に黒い夜叉や紅い火焔を描いた立て看板が配置されたのは、恐らく新聞小説の宣伝としては未曾有のことではなかったろうか。何にしても物凄い勢いであった。そして「金色夜叉」の掲載されたのは、三十一年の一月からだったかと思う。
 先生としては大きな結構と主題のある作品で、人生観といえば人生観、社会観といえば社会観のようなものが、筋の運びと、その心理描写と経緯を成して、到るところに披瀝されている。恐ろしく理屈っぽいところもあって、常識哲学とも言わるべきであろうが、文体は和漢洋を折衷したもので、「多情多恨」でのろのろ田んぼ道を拾っていたものが、たちまち高い山岳をよぢはじめ、深林大澤(しんりんたいたく)を跋渉(ばっしょう)するの概(がい)がある。

 しかし「金色夜叉」は先生の一面の代表作ではあろうが、意図と態度から言って、決して先生の本領であったとは言えないであろう。芸術品として優秀なものは、むしろ「むき玉子」、「おぼろ舟」、「紫(むらさき)」、「青葡萄」などスケッチ風の小品や短篇であった。先生もそうした意気なものが好きであったので、西鶴やモーパッサンが気に入っていたのも、その為である。あの頃の文壇、ことに年の若い先生が、どの程度に西鶴やモーパッサンを理解したかは、一つの時代の問題でなくてはならないが、しかし筆者の記憶するところによれば、その頃しきりにライトタッチという事が先生の口にされた。これはモーパッサンの作風から来たことであったろうと思うが、先生も一種のスタイリストであると見ていい以上、人生の触れ方が軽くていいくらいの程度のものであったろうと想像される。先生のところへは上田敏氏などが来ていた。千葉鑛藏(こうぞう)氏も遊びに見えていた。田山花袋氏は千紫万紅(せんしばんこう)時代から、執筆者の一人であったように聞いている。先生はシャーロット・ブロンテあたりの通俗小説を余り上手でない発音で読んでいられたが、以上数氏(すうし)から外国文学のことは聞いていられたように思う。モーパッサンはまさしく上田氏の輸入で、ライトタッチという言葉もその辺から出たのではなかったか。勿論筆者が初めて拝謁したときにはディケンズの話しなども出たほどで、英文学については、時代相当の知識はあったものと見ていい。晩年病床についていられた頃、枕頭(ちんとう)にハウプトマンの「寂しき人々」やオストロフスキイの「嵐」などがあったのを、筆者は借りて来て読んだことを記憶しているが、それらは千葉鑛藏氏が寄せられたものであった。
 「金色夜叉」のような長篇は、勿論先生が試みた最初のものであるので、あの一篇をもって先生の本質を論ずるのは間違ったことかも知れないし、もしも四十五十ないし西洋の大家のように七十八十までの寿(じゅ)を保たれたならば、体験も加わり、人生観も深まり、偉大な作品が出来たかも知れないが、短い生涯を通じての上では、決して得意の作とはいえない。先生もまた「金色夜叉」の執筆中しばしばそれを口にされた。
 先生の晩年は健康も衰えていたし、芸術についても煩悶があった。想(そう)なしとか。浅薄だとかいう批評もあったので、「金色夜叉」がざっと六年もかかって、あれだけの量であったことを思うと、苦吟であったことは想像に難くない。人気と比較して、社の待遇がそれほどでもないというところに、先生も少し自重の態度を取ったことも、筆者は今から想像し得るのであるが、それにしても長篇小説の筋を作るのは、先生に取っては余り楽な仕事でなかったことは判る。』

斧鑿(ふさく)・・・詩文などに技巧を凝らす事。又は、おのとのみ。あるいはそれらで細工をする事。
シャーロット・ブロンテ・・・イギリスの作家。この時代は英国文学の翻訳も多かった。
ディケンズ・・・チャールズ・ディケンズの事。日本では、この時代ディケンズの「二都物語」などが翻訳され出版されていた。

徳田秋声の尾崎紅葉5へ続く

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