徳田秋声の尾崎紅葉5

小説を入力してみようチャレンジ、只今、伝記に挑戦中です。今回から、今まで2500字前後の文章を掲載しておりましたが、3000字越えを目指し始めました!昭和3年に改造社から出版された現代日本文学全集 第18篇 徳田秋声集から「尾崎紅葉」に挑戦中です。ここでは左記の伝記を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。徳田秋声と尾崎紅葉の研究の一助になれば幸いです。

『 この事は作品批評に譲るとして、筆者の知っている先生の性行(せいこう)の片鱗を示そう。
 まず何よりも先生は文字をいじくることが大好きであった。文章をひねるくることが畢生(ひっせい)の道楽であった。俳句なぞに凝ったのも、その流儀から来ているので、来客も多かったし、座談も好きであったけれど、まず終日机にへばりついて何か彼(か)か字をいじくっていたものと言っていい。自分が先生をある種のスタイリストというのも其処から来ているので、一作一作ごとに何かしら目先の変わった文体を試みようとしたものであるが、文章に凝り性であったことは言うまでもなく、俳句もなかなか遅吟(ちぎん)であった。字体にもまたずいぶん苦心したものだが、本の装幀とか口絵とかに至っても、全て自分の好みで、独特の句風を凝らすことに腐心したものである。で、机の前に胡座(あぐら)を組んで何か彼(か)かひねくっていられたが、健啖もまた有名なもので、若いにしてはまた非常なお茶のみであった。酒は一二杯で真赤(まっか)になって、すぐ横になってしまう。座談は殊に面白い方で、諧謔洒落が口をついて出るのであるが、決して軽薄ではなかった。
 生活は実にきちんとしたもので、物質に対しては殊に、ルーズなところが少しもなかった。これは収入が沢山なかったからでもあろうし、夫人の心掛けが好(よ)かったからでもあろうが、自体先生の物質観には堅実なところがあった。人の面倒を見るのにも、平日の用意がいいからで、人気作家が陥り易い生活の破綻などは見られなかった。これがまた濫作をしない先生の性癖と合致したもので、すらすらと書き流せば流せないこともないのであるが、自重してというよりは、道楽気(どうらくぎ)の凝り性がそれをさせなかったのである。「此(この)ぬし」は一夜漬けのものだということを聞いている。「男心」なども、先生にシテは珍しく書き流しのものらしい、生来文才に恵まれた質(たち)で、文章だけでは決して遅筆ではなかったのである。ただ物を疎かにしない気質が、先生を凝り性にしてしまったのである。
 先生には人間性に対する議論とか、人生についての談話とかいうようなものはなかったし、おもに江戸っ児(こ)趣味に基づいた人情美(にんじょうび)とか意気とかいうものが、いつも話しの味わいをつけていたものだが、口を開けばすなわち文章であったのである。俳句がまた非常に好きで、運座(うんざ)に出ないと機嫌が悪かった。自分達はよく箪笥町(たんすまち)の塾で、夜おそく上の先生の家(うち)からおりて来る先生を迎えて、一室に団らんして、徹宵気焔(てっしょうきえん)で明かしたこともあるが、しばしば自分達だけで運座が開かれた。
 硯友社員がおしまいまで友情で固まっていたのは、先生の愛党心(あいとうしん)、結束力というようなものが与(あずか)って力があったが、しかし親分気質(おやぶんかたぎ)の党派心(とうはしん)がまた祟りを成して、世間から詛われたことも少なくなかったし、快からず思った人もないとは言えなかった。眉山氏などは多分そうだったろうと思うが、友情ということになると、何処までも親分肌の先生は、どうかすると好(い)い意味でのエゴイストであったと言ってよかろう。忌憚なく言えばお山の大将でありすぎる場合もあったのであるが、それは寧ろ先生の目下に対する愛の深さから来ているし、また江戸ッ児風の時代的気質(かたぎ)の現れてでもある。
 先生は何か個人雑誌か同人雑誌のようなものを出すことが、一つ道楽で、その道楽は生涯を通じて終始している。文藝というパンフレットは晩年のもので、小品と俳句とを載せ、先生は小西増太郎(ますたろう)氏の訳にかかる「アンナカレーニナ」を省略し文飾して、ほんの少しずつ載せていたが、筆者にも文章を懲(ちょう)せられたのに対して、どうした気持ちだったか、元来無性(ぶしょう)な筆者のこととて今回はお間に合わせかねるという慇懃な手紙を出したところ、それが先生の逆鱗に触れたものとみえて、朱(しゅ)でもって筆者のもんくに、 数個所(すうかしょ)嘲罵の言辞を挿入して突返(つっかえ)されたので、早速ちょっとした小品を差し出したことを覚えている。

 そ の 著 作
 筆者は上来(じょうらい)略々(ぼぼ)紅葉山人の人となりを印象的に叙述したつもりであるが、書けば書くことはまだ沢山あるのである。しかしそれらは余りにも個人的のことで、書いても書かなくとも、紅葉研究には大した影響のないことばかりである。たとえばその日常生活のうえでは、先生はひどく食味通(しょくみつう)のように言われている。勿論一代の通人(つうじん)だけあって食道楽(たべどうらく)であったには違いないが、今から見るとそれもそう範囲の広いものだとは思えない。知識はあったろうし、各方面の食味(しょくみ)にも通じていられたろうけれど、今日(こんにち)の一流どころの流行作家に比べれば、寧ろ質素であったと言っていい。家庭の食膳なぞも、夫人が煮ものがうまかったし、先生も口喧しい方ではあったろうが、牛肉のロースなんかが好(い)い方ではなかったろうかと思われる。これは先生の経済から割り出しても当然のことで、先生には養育の恩ある荒木老人夫妻がいられたし、お子さんは四人あったし、玄関子(げんかんし)も二人くらいいたし、交遊の範囲も広く、しかも家政はきちんとして、少しもルーズなところがなかった。でもなかったら、文章に凝っているなんてことはとても出来ないことで、先生が常住不断机の前に座って文章か俳句か字かをひねくっていると同時に、乱作をしなかったということや、先生の経済的生活が引き締まっていたからである。これは一半(ぱん)また東京の堅気な家庭に育った夫人の内助にもよるので、夫人は筆者が知っている範囲では、紅葉先生を良人(おっと)にもったという幸福を十分に感謝していられたせいもあろうが、かつて着飾って劇場や寄席などへ行(ゆ)かれたことはなかったのである。一年の享楽は九段の招魂社祭りを見に行(ゆ)くくらいのものではなかったろうか。大作家の夫人としては甚だ趣味がなさすぎると言えばそれまでだし、先生は余り家庭に納まりすぎたとも言えるのであろうが、芸術家としての生活を崩さなかったことは、短い生涯にしては決して少ないとは言えないあれだけの作品を残し得た所以であろう。先生の「読売」から受け取る俸給はいい時で百円くらいのものだったと思われる。その他に雑誌へ書くものや、単行本の収入はあったとしても、生活は余り余裕のあるものではなかったので、先生も不満はありながら物質は諦めていたのである。貧富について社会観のような感慨を筆者は先生に聴いたことがある。その頃先生は安田一家の人と光彩していられたので、自然そう言った社会相(しゃかいそう)が反映したものであろう。「金色夜叉」の主題となっているところの概念もそう言った種類のものである。趣味性は高く洗練されたものでなかったにしても、江戸ッ児肌の庶民的気分から来る通人肌のところがあったので、先生も金はほしかったに違いないのである。家庭におさまって、道楽に俳句や何かをひねくっていたのは、それが先生の本質的なものであったし、本来道徳観念の比較的厚い人だっただけに、芸術家の矜(ほこり)を傷つけることは敢えてしなかったし、富貴を羨みはしなかったけれど、もう少し何とか門戸を張りたいくらいの考えはあったに違いない。
 道楽は文章や俳句のほかに、撞球(どうきゅう)、弓、狩猟、写真、なぞもあったが、弓が巧かったほかは、すべて不器用で、写真も狩猟も殆ど問題にならなかったようである。』

撞球(どうきゅう)・・・現在のビリヤードのこと。徳田先生の説明によると尾崎先生は、弓は巧くてもビリヤードは苦手だったようですね。写真なども、きっと撮影すること自体が楽しかったのだと思います。

徳田秋声の尾崎紅葉6へ続く

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