織田左文字◆順慶左文字◆小夜左文字

享保名物帳には、左文字の刀は三作登場します。織田左文字、順慶左文字、小夜左文字この三振と左文字派の始祖である左衛門三郎についてここでは解説しています。

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織田左文字

『刀剣名物帳(享保名物帳)』には「信長公御物、御二男信雄卿へ進せられる、如何なる伝えか井伊掃部頭殿に有り」と記されています。
織田信長から次男信雄に伝わり、のちに井伊家に移った名刀で、伝わった経緯は現在では下記の通りに考えられています。

1584年(天正十二年)6月に信雄の重臣である前田与十郎が信雄に対して反旗を翻した時、井伊直政が鎮圧に駆け参じた時にお礼として拝領したものだと推察されています。
1853年(嘉永六年)直弼が藩主に就任した後、必要な刀剣を江戸へ移すために調査した「御手元下り御腰物箪笥捨八棹留」によると十二代直亮が素銅に自筆文字の「おた左」を透かし彫りした鐔と青貝に井桁くずし紋蒔絵の鞘を作らせたことが伝えられています。
現在、鞘は残らず秋を感じさせる、とろりとした深い赤が美しい「おた左」の鐔のみが現存しています。

昭和63年に彦根城博物館にて開催された「特別展 井伊家伝来 刀剣と刀装の美」においては、この現存する鐔と織田左文字が一緒に展示されました。
また、織田左文字は焼身であると記述されているものもありますが、同展の資料を読む限り名物織田左文字が大正時代に焼身となり再刃された旨の記載は一切なく。掲載されている織田左文字の写真は刃紋も美しく凛とした姿を見せてくれております。
現在、鐔は佐野美術館が所蔵。織田左文字については、彦根城博物館が所蔵しております。

順慶左文字

もとは、和州郡山城主であった筒井順慶が所持していたが、のちに紀州若山城主 浅野長晟の手に渡り、徳川家康公に献上されました。
献上した理由としては、浅野長晟が兄である幸長の死後、遺領を継承したお礼と考えられています。

1615年(元和元年)大阪冬の陣において、秀忠は功のあった阿州徳島城主である蜂須賀至鎮にこの刀を贈りました。

『享保名物帳』には蜂須賀蓬庵とあり、至鎮の父である蜂須賀蓬庵(家政)が拝領したとあるのは誤りであると、現在は考えられています。
蜂須賀虎徹などを所有している蜂須賀家に伝来。

小夜左文字

遠州に住んでいた浪人者が亡くなった後、形見の左文字の短刀を浪人の妻が掛川に売りに行く途中、小夜の中山で野伏に短刀を奪われた上に殺されてしまいました。
妻が残した幼子は、彼女の妹が引き取り養育しました。彼が15、6歳になった時、仇討ちを果たしたいと思えど、相手の顔も解らない。
そこで、名刀であれば必ず研ぎに出すであろうと算段し、彼は掛川の研師に弟子入りします。
ある日、一人の浪人が研ぎの依頼に彼の元にやって来ました。見れば、短刀でこれは小夜の中山で女から奪い取り、後腐れのないようその女も殺したと言いいます。
彼は、叔母から聞いていた話しの内容と一致するので、浪人が母の仇であると察します。そして、そんなに謂れのある短刀なら見せて下さいと懇願しました。
短刀を受け取った彼は、返す刃で見事、仇討ちを果たしました。

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当時、掛川城主であった山内一豊は、その仇討ちを耳にすると早速、件の短刀を召し上げます。
それ以降は、細川幽斎が手に入れ「年たけてまた超ゆべしと思ひきや いのちなりけり小夜の中山」という西行の歌にちなんで“小夜左文字”と命名されました。
以後、黒田家、浅野家、土井家を転々としました。
土井家が1665(寛文五年)に本阿弥家に贈り、千五百貫の折紙をつけています。

享保名物帳が書かれた時(1716年)には、京都の豪商宅に居たそうですが、持ち主は土井能登守で記述されています。
また、名前も「小夜中山」で記載されており長さも八寸八分、現在の八寸一分よりも七分ほど大きいですね。

左文字(さもじ)

正宗十哲とされる筑前の刀工。現代では“さもんじ”と呼ばれているようですが、古書の類には“さもじ”とルビを打たれているところから、ここでは、“さもじ”としています。
通称、左衛門三郎。のちに左衛門尉とも呼ばれました。
左文字派の始祖であるため、大左とも。古くは、来国行の弟子であると考えられていたが、のちに相州正宗門が定説となりました。
彼が銘を「左」だけしか切らなかった理由には、諸説あります。
一番有名な説は、相州正宗が“手棒正宗”と呼ばれており、右手がなく左手だけで作刀していたので弟子であった左衛門尉は銘に「左」だけ切っていたという説です。
左文字は相州正宗門下では第一の高弟で、刀の地肌が美しく師である正宗よりも鎌倉の武士たちからの注文が多く、それに嫉妬した正宗が幕府に讒訴(ざんそ)したため、隠岐の浜に追放の身となったが左文字は鎌倉の山ノ内に潜居して鍛刀を続けました。
ですが、師である正宗の発覚を恐れ、刀は無銘、刃紋も相州風ではなく京風や備前風に焼いていましたが、やはりそれも正宗の知るところとなり、再び幕府に訴えられたため鎌倉から去らざるを得なくなりました。
このため、左文字は諸国を放浪した末、筑前にて居を構えることとなったのです。
左文字の作品に在銘が稀であるのはこの正宗の讒訴が原因であるからだと考えられています。
彼が名人であったことは、数多い名物に左文字の作品が相州貞宗に次いで多いことから窺えます。

現在、正宗十哲は江戸時代の創作であったとされています。上記の左文字の謂われも講談ものとして江戸時代に創作されたものであると考えられています。

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