田山花袋と尾崎紅葉とその時代

今回も、筑摩書房で出版された現代日本文学大系3「尾崎紅葉、内田魯庵、広津柳浪、斎藤緑雨」に収録されている田山花袋が尾崎紅葉の解説のために寄せた文章「尾崎紅葉とその作物」から、尾崎紅葉を取り巻く時代や人間関係についてまとめてみました。『』内の文章は全て左記の本における引用となります。

田山花袋の寄稿文のタイトルが「尾崎紅葉とその作物」であるためか、

『「色懺悔」「夏痩」あたりから、私は紅葉の作物を手にした。』

まずは、尾崎紅葉が生み出した小説を手に取るところから始まります。
そして、紅葉を巡る人物関係と文壇の変化についての解説がこれに続きます。まずは、

『基頃「江戸紫」という雑誌が硯友社の人達のてに由って発行されて居た、それを千駄木の鴎外漁史が評して、「われも紫の一本ゆゑにかの雑誌を愛読するものなり」という意味のことを書いた。紫の一本、無論それは紅葉を指して居た。』

硯友社(けんゆうしゃ)は、紅葉を初めとした文学結社の名前で、当時は硯友社一派と呼ばれていたようです。もちろん、この硯友社一派以外に当時は文体ごとに色々な派閥があり、そために

『基時分、文壇に出て行く人達は、先ず文体からきめてかからなければならないようになって居た。』

現代では、全く考えられないことですが、当時は、文章における様々な表現のための研究が花開いた時代であることが窺えます。

『紅葉と露伴とは、西鶴から出て、やがて右と左に分かれて行ったような光景を呈して来た。』

西鶴というのは、井原西鶴のことで代表作として浮世草子の「好色一代男」が有名ですが、江戸時代に生きた彼がなぜ明治の文豪に愛され影響を与えたかと言えば、淡島寒月(あわしまかんげつ)、彼が紹介した井原西鶴にスポットが当たり再び多くの人に愛され読まれたためだそうです。

『そして互に自分の持って居る特色を発揮して来た。紅葉の文、露伴の想、こういうことが度々言われた。』

田山花袋と尾崎紅葉とその時代2へ続く

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