田山花袋と尾崎紅葉とその時代2

文豪を扱ったゲーム「文豪とアルケミスト」を遊び始めたのはいいものの一日30分しか遊ばないのと、全員を満遍なく育てているため、現在は全員がLv5~7です。徳田秋声だけ昨日、Lv8になりました!幸田露伴チャレンジ?は残念ながら全てのステージを突破できなかったのと、尾崎紅葉と徳田秋声の新しいお洋服は手に入れることができませんでした。昨日、チャレンジの続きをしようと思って行ったらもう行けなくなっていて。代わりに、もらい損ねていたアイテムがまだ入手できたので、とても嬉しかったです!

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今回も、筑摩書房で出版された現代日本文学大系3「尾崎紅葉、内田魯庵、広津柳浪、斎藤緑雨」に収録されている田山花袋が尾崎紅葉の解説のために寄せた文章「尾崎紅葉とその作物」から、今回は尾崎紅葉の人間性や文章についての彼の取り組みついてまとめてみました。『』内の文章は全て左記の本における引用となります。

『紅葉ほど絢爛な文章を書いた人は基頃にはなかった。かれの文章に対する苦心は惨憺たるものであった。言葉の選択、字句の排列、形容詞の配置など、かれほど文章に努力したものはないとさえ言われた。』

尾崎紅葉は、35歳の若さでこの世を去っていますがこの文章に対する長い苦闘が死期を早めてしまったのかもしれませんね。これ以降は、一作ごとに田山花袋の尾崎紅葉の作品に対する評価や当時のことがが誠実に細かく綴られています。尚、田山花袋によくある急に文中に国木田独歩が飛び出すことは、この寄稿文に限ってはありません。

『それほどかれは文章を重んじていた。芸術=文章位に考えていた。』
『だから、文体とか文章とかいう方面に於ては、かれは常にあらゆる苦心をした。雅俗折衷、地の文と会話との関係、言文一致などと、かれが小説を新聞に公けにした時には、必ず何等かの新しい試みが施されていた。小説の文体と文章が今日のように発展して行ったことについて、かれの与(あず)かった功は大きいものと言わなければならない。』

この当時は、文章において様々な試みという名の実験が行われた時代で、新しい文体や文を発見した方は名を残すことになりました。もちろん、尾崎紅葉もその一人です。ゲーム「文豪とアルケミスト」で本を浄化しにいくことを“研究”と称するのもこのあたりから来ているのかもしれませんね。あるいは、本を浄化することは敵を知る上での研究の一環であるという考えの元かもしれません。

『かれの芸術は、多くは興味中心から成立っている。対照の面白味、事件の面白味、でなければ、文章の面白味を目的としている。想像力の用い方なども、随分空想に近いような用い方をしている。「面白くなければ駄目だ。現金なものサ。人が読んで呉れないからね」こう言ってかれはよく若い人達の作品を評した。 かれに取っては、作の受ける受けないは大きな問題であったらしい。』

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尾崎紅葉が抱えていた悩みは、現代作家に通じるものがありますね。この文章以降、田山花袋から見た尾崎紅葉自身の描写が多くなってきます。

『かれは趣味を生命として居た。それからかなり厳粛な道徳説を持していた。「青葡萄」を読むと、かれの人生に対し、世間に対し、度を持していたかということが解る。かれはまた人情と義理とを重んじた。』
『烈しい処もあったが、やさしい処もあった。~中略~直情径行な、天真爛漫な、他人に対して城府を設けないというような紳士らしい処があった。江戸生まれの男らしい男ーそれは「多情多恨」の葉山に見るような男らしい男であった。』

この文章を読む限り、泉鏡花が愛した実に江戸っ子気質に富んだ尾崎紅葉の人物像が想像できたのではないでしょうか?花袋は紅葉の人間性について語った後、代表作である金色夜叉における裏話的な文章がこれに続きます。

『「金色夜叉」を書いて居る時、作者は、「何うせ、お芝居サ」こう言って私に話した。「金色夜叉」は無論、新聞小説としてかれが筆を執っていたものである。「多情多恨」のような受けない作を書いた報酬として、止むを得ず筆を執った種類に属するものである。~中略~しかし、いつでもそうだが、かれはそうした俗受け小説にも、自己の文章の努力を捨てることの出来ない作者であった。』

金色夜叉の連載が開始された理由が、実に意外なものだったのではないでしょうか?私自身、世間一般に受ける作品を書くように言われて執筆した小説であるとは、この田山花袋の寄稿文を読むまで夢にも思いませんでした。それから、若くして無くなった尾崎紅葉の晩年の回想が続きます。

『かれの如き精力家、かれのごとき体質を持って、年末だ四十に至らずして逝いたということは不思議にさえ思われる位である。机に対しての努力、無論それからかれの病は出たと言って差支ないと私は思う。』

失礼ながら、自分も最初は尾崎紅葉が短命で泉鏡花が長生きをした事実を知ったとき、思わず「逆では無いのか?」と考えてしまったことがあります。泉鏡花は、彼自身の作品のように儚い印象があったので、本当に意外でした。泉鏡花としては、先生の意思を継いで少しでも長く文章における研鑽を積まなければいけないと考えていたのかもしれませんね。

『人を率いるの権威と才能とをかれは十分に持って居た。 かれはまた後進の為めに力を尽した。かれの名声に由ったばかりではなく、かれがそれ等秀才の為めに門戸を開いて遣ることに力を惜しまなかったということが、矢張大きな動機になっている。~中略~その門弟達のいる家塾には、昔の師弟のような純な関係を見ることが出来た。』

紅葉と紅葉の門下生達が、実に仲が良かったことを伺わせる内容ですね。田山花袋は次の文でこの原稿を締めています。

『かれは「しなば秋露のひぬまぞおもしろき」という感興を貴んだ旧式な辞世を残して、盛んなる友誼と盛んなる師弟の恩義と盛んなる社交の空気との中に溘然(こうぜん)としてこの世を去って行った。』

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