泉鏡花から尾崎紅葉への思い2

泉鏡花から尾崎紅葉への思い1の続きとなります。筑摩書房から出版された現代日本文学大系3「尾崎紅葉、内田魯庵、広津柳浪、齋藤緑雨 集」から泉鏡花が尾崎紅葉について解説している「我が尾崎紅葉観」を以下に全文掲載しております。
現代においては読めない、読みにくい文字についてはふりがな及び平仮名、新漢字で表記をしております。紅葉先生と同じく言葉に大変苦心された泉鏡花先生の美文の要素が減ってしまうと、お嘆きになるかもしれませんが、読めなければ意味が無いため予めご了承下さい。先生の手つかずの文を拝読されたい方は、この文学大系3をご購入されることをお勧め致します。

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 今めかしく言うではないが、先生の筆を見よ、唯ここに、「化粧」、とだけの二字にさえ、あらゆる、百千種の白粉(おしろい)、クリームの、和製舶来を合せて、大肌脱(おおはだぬぎ)になって塗立てたよりも美にして艶である。牡丹刷毛(ぼたんはけ)を使ったのではない、筆に含ませた一滴の墨が、雪よりも白い、文章の霊である。
 その文の霊なるを言えば、巻を開く、第一……

ー九重(きゅうちょう)の天、八際(はっさい)の地、始めて混沌の境を出でたりといへども、万物未だことごとく化生せず、風は試(こころみ)に吹き、星は新に輝けるー

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 如何に。字義を尋ね、熟語をただすとせば、高等の教育あるものも解釈を易しとしない。しかるに老若男女、桃割(ももわれ)の娘も、鼈甲縁(べっこうぶち)の目金(めがね)かけた隠居も、読売新聞の朝の配達を、先を争って耽読、愛誦したのは、章句調律自(おのず)から微妙なる音楽と成って、風は蕭々として紙上に鳴り、水は潺々(せんせん)として筆意に濯いでで、直ちに読者の心胸に響いたからである。かくして、人口に膾炙して、津々浦々に喧伝するこの金色夜叉を、あらためて言うには及ばない。」
 先生がある時、某処の園遊会に出席された。園に、淑女才媛がおびただしかった。大塚楠緒子(なおこ)、上田柳村氏夫人など、十幾人が、ばらばらと初対面の先生を取巻いた。
「先生。」
「先生。」
「ーそもそも塩原の地形たるとは何事でしょう。」
「塩原群の南より群峰の間を分けて……どころじゃありませんわ、宮さんを何うしてくださるんです。」
 あまねく教科書に引用さるる、続々篇塩原の一節のあたかも掲載された当時であった。
「いや、驚かされたよ、しかし悪い気はしなかったよ。」
 帰って、紋着のまま、先生は私たちに話された。一寸(ちょっと)、お嬉しかったようである。で、かざし合う綺麗な扇子(おうぎ)に、もとめをいれて、貫一、宮、いろいろいろいろなど打興じられたと聞く。
 その頃の「文学界」にちなみの浅からぬ婦人で、私の親友の細君がある。その懇親だったある令嬢が、肺を病んだ、いささか誇張して言えば、貫一宮のなりゆきを余りに思い煩ったためである。その夭死した時、息の下に遺言した。
「金色夜叉の新聞の続きを、どうぞ……きっと墓へ手向けて頂戴。」
 私が先生に伝えた時、
「ああ、そういうのは、作者の守り神といっていいな。おろそかに思うなよ、お前なぞも。」ー

 七たび生まれかわって文章を大成せむ。先生がいまわの言である。文章報国の信念と、鍛錬無比の精進と、そのこれあるがためにー

※桃割(ももわれ)は、当時の女性の一般的な髪型。

泉鏡花から尾崎紅葉への思い3へ続く

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