川端康成と徳田一穂が徳田秋声について語る2

川端康成と徳田一穂が徳田秋声について語る1の続きになります。
中央公論社さんが出版された「日本の文学 徳田秋声(一)」には、付録として川端康成と徳田秋声の息子である徳田一穂の対談が収録されています。個人的に、このお二人の対談の内容が非常に興味深くて息子だから語れる点などがあり気になった部分をまとめてみました。以下、『』内の文章は左記の本からの引用となります。

徳田 親父の書いたもので、柳川春葉さんのお葬いに行った時のことを書いた短篇があるのですが、そのなかで、紅葉さんのことを書いたために泉さんと春葉さんが秋声に敵意をもった、ということに対しては不服だったように書いています。親父が大正四年ごろ痔瘻を患って、順天堂へ入って周囲で非常に心配したことがあるんです。それと大正五年に長女の瑞子というのが亡くなりましたが、春葉さんも鏡花さんも見舞いに来なければ、葬いの挨拶もなんにもなかったらしいですね。そういうことを親父は非常に二人に対して心外で、紅葉先生のことを書いたからといって、友だち甲斐がないということを書いているのがあります。』

痔瘻は、じろうと読みまして、肛門の周囲に穴が開いて膿がでる疾患です。

川端 紅葉には尊敬をもっておられたようですね。それに、はじめはともかく、その後紅葉のほうでも少なくとも親しくしているのじゃないですか、代訳なんかもあるようですしね。
 徳田 ええ。紅葉の病気のときに、ユーゴーの「鐘楼守」を紅葉の名前で出したのは、ある人の訳に、英訳本をかたわらに筆を加えたそうで、その時の原稿を私は持っています。
 川端 先生が紅葉の名前を借りて書いた小説もあるのじゃないですか。
 徳田 あの時分は、なんか……。
 川端 二人の名前で出してましたね。
 徳田 紅葉先生の未亡人が、昭和十五年ごろですか、非常にお困りになって、菊池寛さんもなかへ入って口をきかれたのじゃないかと思いますけれども、中央公論に行ってお頼みして全集を出すように心配したりしてました。尊敬もしたし、そういうこともやったのじゃないかと思いますけれどもね。』

この当時は、女性は一人で生きていくことができない時代だったので、茶道・華道や衣服の縫製における師範の免状を持っていて、それらを教えることで生計を立てるか。あるいは料理屋などのお店を切り盛りする気概が無ければ、お妾さんや当時は「売り食い」と呼ばれていた家財を少しずつ売って、糊口をしのぐしか生きる手立てが無い時代でした。なので、紅葉先生の未亡人は彼が亡くなったのちの生活はとても大変だったと思います。

川端 島崎さんのことはわりに尊敬していたようですね。
 徳田 尊敬しておりましたね。
  ~ 中略 ~
 川端 同時代の作家では、いちばん島崎さんに敬意を表わしておられたのですかね。
 徳田 田山花袋さん、岩野泡鳴さんとも仲よかったですね。それから正宗白鳥さん、近松秋江さん、みんな長いお付き合いでした。島崎さんは時分にないものをもっていたから非常に偉いと思って尊敬していたのでしょうね、ぜんぜん逆ですから。
 川端 ちょっと僕は意外だったほどですよ。意外なような気がしました。』

私も、このお二人の対談を拝読し、徳田秋声が島崎藤村を尊敬していたのは意外だなと感じました。やはり、同じ道の師たる存在を尊敬するのはよく分かるのですが。このあたりが、広津和郎における徳田秋声論からの引用になりますが『英雄と云われる人間をも、子守っ子をも、既成の観念や世間の定説などに煩わされずに、同じ態度で見る事が出来た人』らしいと思いました。

川端 それは、そうでしょうね。秋声先生は金沢の加賀の武家の出でしょう。先生のお母さんのほうは名家で……。
 徳田 ええ、津田家といって、太閤さんのお墨付があって、大阪から客分として来たとかいうことです。秋声はそっちを継ぎたかったらしい。』

よく、秋声の出自について父方については書かれているのですが、母方まで言及されているものは、私自身の不勉強故、見たことがありませんでした。この対談における母方の血筋の詳細を知ることができて、良かったです。

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