広津和郎と江藤淳が徳田秋声について語る

中央公論社さんが出版された「日本の文学 徳田秋声(二)」には、付録として広津和郎と江藤淳の対談が収録されています。個人的に、このお二人の対談の内容が非常に興味深く特に広津和郎の文学評論家であるから語れる秋声の姿などがあり気になった部分をまとめてみました。以下、『』内の文章は左記の本からの引用となります。

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広津和郎ってどんな人?

広津和郎の父である広津柳浪は尾崎紅葉主催の硯友社(けんゆうしゃ)に所属していた小説家です。和郎自身も小説を書きまた正宗白鳥と同じように文芸評論家でもあった人です。彼自身は父である広津柳浪が人気作家でなかったため、10代の頃から翻訳をすることで家計を支えました。モーパッサンの「女の一生」やトルストイの「戦争と平和」などの翻訳は彼の手によって、日本で始めて紹介されることになりました。どちらかと言えば、ご自身の作品より翻訳作品で名前を残した方です。他にも、当時の小説家との交友が多い方でもありました。

江藤淳ってどんな人?

著名な文芸評論家であり、文学博士であった。徳田秋声については、主に漱石と秋声を対比させての文芸評論を展開するなど、独自の視点から批評を行った人物。彼曰く、漱石と秋声は生い立ちが似ていること。また、漱石の「道草」は秋声の「黴」を設定だけ模して書かれた作品だと主張している。

広津 こういうことがありましたね。そのことは僕は前に書いたことがあるかもしれませんが、「新潮」の合評会がありまして、そのときに、志賀さんの「痴情」が合評にのぼったんです。僕があの小説をほめますと、いきなり徳田さんが「こんな不道徳な小説。君なんか女に潔癖でないからこんなもの認めるんだ」こう言うんで、僕は驚きながら、おもしろいな、あまり人生に意見らしい意見をもたない徳田さんが意見もった、と思ったんだ。ふつうでいえば、志賀さんの「痴情」を不道徳と言える徳田さんじゃありませんからね。けれども相手が山田順子であっても、非常に真面目に秋声が恋愛しているんだなと思いました。
 江藤 山田順子という女性は、もちろん先生は見ていらっしゃるでしょう。
 広津 よく知っています。
 江藤 ひと口に行って、どういう感じでございましたか、広津先生の目に映った山田順子というのは。
 広津 この人が亡くなってしまったからといって、あとからまり言うのもなんですが、しかし、どんな意味からでも、そうとるに足る感じではない人でしょう。だから、秋声がそういうことを起こしたということに、ちょっとびっくらしたんです。これには誰でもみんな驚いてしまったんじゃないかと思うのです。そういう人ですね。』

一巻における川端と徳田秋声の息子である徳田一穂の対談にも登場しましたが、ここでも山田順子さんが登場していますね。よほど、印象的な女性だったのでしょうか?

江藤 ~中略~ いわゆる茶の間小説というのを秋声は書いてきて、茶の間に妻君が坐っているということで小説が書けていたところがずいぶんあるでしょう。「あなた、今夜のうちに口をおあけになっておいたら」なんていうような面もあるし、プロデューサーみたいになってくれる面もあるし、実際に「黴」以来の書く対象としての夫人というものは、非常に重要だった。それがポックリ茶の間からいなくなったということは、秋声は困ったんじゃないでしょうか。小説を書けなくなったんじゃないでしょうか。』

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先に、秋声が志賀の作品に対して意見を言ったのは、秋声が妻君を亡くして山田順子と出会ってから順子ものを書いていた時期にあたります。江藤は秋声が妻君を亡くして順子に会うまで困っていたのではないかと、推察しているようです。
対談内容としては、前後しますが、江藤淳の下記の推察も個人的には面白く感じましたので、引用します。

江藤 「仮想人物」なんかを見ていますと、秋声の山田順子観じは、非常に概念的に言った場合ですけれども、二つの面があって、ひとつは新時代の女性というふうに見ている。これは花袋の「蒲団」だってそうですし、恋愛するときは、中年の男、秋声の場合は初老といっていいでしょうけれども、そういう男が恋愛をする場合に、若い女性に新時代を見て触れることによって新時代をわがものにしたいという気持ちがあるような気がするんですけれども。一方で、秋声はなかなかよく見ているようにも思います。』

現代でしたら、インターネットに繋げて積極的に若い方の文化に触れれば、新時代をこうまでして体得する必要はありませんが、昔は一人一人の人間が新しい情報であり新鮮さを含んだ出会いであったのだということが窺えますね。

広津 秋声のおもしろいのは、これも「群像」に書いていますけれどもね。昭和十一年、斎藤内閣のときに、警保局長だった松本学が文学統制に乗り出したんです。~中略~ 斎藤首相に話をしたら、それは結構な話だというんで、作家たちを呼んだわけです。そうして「この集まりを私設の文芸院という名にしたいと思います。元来国家がもっと文学のためにつくさなければならないのですが日本では文学に対して政治家があまりに冷淡でした。それで、いま国家のそういう方向への機運を促進するために、私設文芸院を作りたいのです」と言ったときに、徳田さんがいきなり、「日本の文学は庶民から生まれ、庶民の手で育った。いままで為政者に保護されたことはないし、いまさら保護されるなんていわれたって、そんなもの信用できないし、気持ちが悪い」それに「日本の政府がいま文字の保護に出てくるほどの暇があるはずはない、そんなことは信じない」と間髪を入れずそういうように言ったんで、松本学はこれはなかなか文字の統制なんて出来るものではないと、方向転換したわけです。名も文芸院はやめて、文芸懇話会という当らず障らずの名にして、意味もない会合を続けることになりましたが、そのうちその会で、どっからもってきたのか、金があるので「文芸懇話会」という雑誌を作ろうということになった。そのとき島崎藤村がおだやかに、「松本さん、お台所のほうはどうぞあなたがおやりください、しかし編集のほうは私どもがやりますから」と一本釘をさした。これは内務省の御用雑誌にされないためです。こういう急所急所でびしっと言うべきことを言う点で、やっぱり明治文壇の藤村・秋声はえらいと、そのとき感じたんです。』

一緒に現場にいた広津和郎だからこそ、藤村と秋声の人としての胆力に驚かされたのだと思います。恐らく、秋声はこの場にいる人間で、最年長は自分だからということもあり自分が言わなければいけいと思ったのではないでしょうか?後進作家を守るためにも自分が言わなければならいと感じたのだと思います。その点、藤村も同じ気持ちではなかったのではないでしょうか?

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