正宗白鳥が語る田山花袋4

正宗白鳥が語る田山花袋3の続きになります。筑摩書房様が出版された「現代日本文学全集21 田山花袋集(二)」より正宗白鳥の田山花袋論の現代語訳を以下に全文記載します。かなり長いので、お暇な時にお読みいただければと思います。自分の手前勝手な現代語訳ですので、正確性には欠けることがあるかもしれません。その点につきましては、ご容赦下さい。

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 宗教についてもそうだ。「残雪」は、この作者が恋愛から宗教に移った経路を書いたもので、他の小説とはいくらか趣を異にして面白いのであるが、しかし、これを読んで、作者が本当に悟道の域に入りきったと思ったら大間違いである。
 作者は、田舎の寺で、偶然経文を読んで、大いに感激し、人生の帰趨(きすう)ををそこに見たので、
「……いろいろなことを知った。解けない問題をどのくらい解いて貰ったか分からない。……この間もすっかり打たれてしまって、これkらの残った一生を佛の功徳に報いても、決して悔いないとすら思ったからね。……こうした大歓喜を受けた得難い経験を僕は世間にも分かってやりたいとつくづくおもったね」と興奮して云い、
「……心は輝き光明と安楽とに満たされた。かれはもう帰って行く都会を呪いはしなかった。事業のはかなく功名の空しいのを嘆きはしなかった。またかれが住んでいる芸術の世界の陥穽(かんせい)を恐れはしなかった。人生の欺騙(きへん)乃至虚偽にも多くの心を費やさなかった。かれは再び青年に戻ったような気がした。陽影は朗らかに庫裡(くり)のひろい勝手にさし込んで来た。雀はその生を楽しむように嬉々としてとして百囀した」と歓喜の感を述べ、
「さびしいしかし春を像想した冬の野がひろくかれの前に展(ひら)けた」と、意味ありげな句をもって、一篇の小説を結んでいる。
 だが、こういう豊かな宗教感も、多分の感傷味をもった一時の気休めに過ぎなかったことは、「残雪」のあとで書かれた「恋の殿堂」と、「百夜」の主人公とが旧態依然として、悟道の人らしいところの少しも見られないのによって、明らかに推察せられるのである。人は境遇により、或いは修養により、次第に変化するには違いないが、根本的の烈しい変化は滅多にあり得ないのである。それは、他人のことよりも、自己を反省してよく分かるのだ。田山氏の如きは、文学の上で非常な飛躍を試みた人であったが、それにかかわらず「名張乙女」「野の花」の気持ちは、「百夜」には、初期の作品への還元が見られるのだ。「だって、君、人生にそれより他に何があるかね。事業とか名誉とか、そういうものも一時は大きなものであることはあり得るさ。しかしそういうことは雪か霧のようなものだからな。たちまち消えてなくなるからな。ところが男女のことはそうは行かない。死ぬまでくっついて来ている。人間は墓穴までその心を運んで行く」と、作者はろうろうそういう感慨を洩(もら)しているが、田山氏自身忠実に墓穴までその心を運んで行ったのだ。
「残雪」には、女主人公が、同じ稼業の女と、ある男を争って敗れたたため、刃物三昧をして、投身自殺を企てたことが書かれているが、そのために彼女が死生の境に彷徨しているのを慰藉(いしゃ)し愛撫して、決して彼女に愛想をつかさない男主人公の純情が子細に述べられていて、我々読者に作者の面目を偲ばせるのである。三種の長篇のうちでも、このあたりが最も小説的興味に富んでいて、この作者の真心が最もよく現れている。これに継いで、例の宗教感菩提心の発作が書かれているのは、心理的に当然の順序であろう。

正宗白鳥が語る田山花袋5へ続く

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