正宗白鳥が語る田山花袋5

正宗白鳥が語る田山花袋4からの続きになります。筑摩書房様が出版された「現代日本文学全集21 田山花袋集(二)」より正宗白鳥の田山花袋論の現代語訳を以下に全文記載します。かなり長いので、お暇な時にお読みいただければと思います。それにしても、自分は柳田国男推しな一面があるため、私の脳内では星座のように星と星の間に走る見えない線ごとくここは、柳田国男と繋がっている!と思って掲載したら他の方には、唐突に文中に柳田国男が出て来たとなるらしくて。これが、志賀直哉の文章にとつぜん武者小路実篤が飛び出す現象の原因では……?と思ってしまいました。これは、私自身を鑑みて思うのですが、志賀直哉はだいぶ武者小路実篤を自分の魂の中に入れ込んでしまわないとできない芸当なので相当です。

 五月十三日の夜、私は、まだこれ等の長篇に目を触れない前に、麻布の龍土軒で開かれた田山氏の三回忌ーすなわち逝去後満二年を期した追悼会に出席した。ふるくから仏蘭西料理を看板にしていたこの洋食屋へは、十数年来行ったことがなかったが、その家は昔のままで、現代化した東京にこんな所があるのかと思われるような古色蒼然たるもので、仏蘭西で見た十八世紀の料理屋を思い出させた。そして、我々の目には、昔の記憶が浮かんで、由緒のある歴史の跡を弔うような気がした。追悼会の来会者にも、文壇の新人は一人も加わっていなくって、自然主義文学の凋落の影がそこに見られるようで、追悼会はますます濃(こま)やかであった。私などが文壇に出た頃、「龍土会」と名づけられた、新進気鋭の文学者の会合が、この龍土軒を会場として、毎月催されていて、知名の自然主義の作家は多くその会員であった。私は龍土会が盛りを越した頃に加入したのであったが、国木田、小山内、岩野、蒲原、中澤などの諸氏が、元気のいい声で、議論を闘わし、饒舌を弄(ろう)していたことが、私の記憶に明治文学史の一現象として、鮮やかに刻まれている。田山、島崎氏も無論会員であったが、どちらもおとなしかった。
 田山氏は、あの頃の作家仲間では、やはり巨大な作家であったと、私は今思っている。他の誰彼に比べて、氏は凡庸であるらしく見えるが、凡庸を押し進めて行って、才智を弄しないところに、巨大な作家の風貌がおのづからあらわれていると云っていい。
「恋の殿堂」などに描かれている若い男女の恋愛は、老いたる主人公自身の恋愛の描写に比べると、甚だ粗末であって生彩を欠いているし、老主人公が青年少女の情事に対する態度も随分身勝手であると云っていいのだが、ここに、この作者の主張していた客観的態度が、作品の上には充分に実現していないことが証明されるのだ。「露骨なる描写」は試みられていても、この作者のよく云っていた「鋭いメス」はそんなに動いていないのだ。藤村・秋声・泡鳴・蘆花などの諸氏が、皆んな自叙伝風の小説を作り出し、それ等の多くは、それぞれに一くせある感じがするが、田山氏のは凡庸で、芸術家らしい綾がない。経験や感想を、べたべた書きつづけたもので、経験さえあったら、誰にでも書けそうに思われる。しかし、これを凡庸と思うのが、我等が、自分等の文学標準に捉えられてるためなので、凡庸丸出しのところになまなかの非凡以上の偉大さを認めなければならぬかも知れない。
 今読んだら稚拙凡庸の作品と思われるだろうが、「蒲団」は、何と云っても、明治文学史上の画期的の小説であるのだ。追悼会の席上で森田草平氏は、昔田山氏の誤訳が問題となったことを語っていたが、田山氏の翻訳に間違いがあったばかりでなく、「西花余香」と題された欧州近代文学読後感、その他、自然主義の中心人物となった以後の、東西文学批評や解釈なども、決して的確であるとは云えないので、自己流の早合点も多かった。先日ある会で日本の山水美の話しが出た時、某氏が田山氏の旅行記には事実の相違が多く、信用が出来ないと非難していた。しかし、田山氏は西洋文学を曲がりなりにも読んで、自分自身で解釈したところによって、自分の創作態度を改めようとし、「蒲団」のような、他人の物笑いになりそうなものをも、自分でそれを是なりと思ったが故に、断然として創作した。「僕は昔から比較的正直に世間に生きて来た。誠実を失わずにやって来た。言はば丸はだかで刀槍の林立する中を通って来た」と、「恋の殿堂」の、宗教陶酔時分に云っている。文学の上の氏の革命態度は、氏自身の作品を根本から異なったものにはなし得なかったが、他の文学者に及ぼした影響は甚大であった。花袋流の自然主義が流行して文壇を賑わしたのだ。賛成者でも反対者でも、盛んに自分々々の「蒲団」を書き出し、自分の恋愛沙汰色欲煩悩を覆うところなく直写するのが、文学の本道である如く思われていた。機運が熟していたためであろうが、その傾向に火をつけたのは田山氏であった。私には、田山氏があんな創作やあんな文学観を発表しなかったら、自伝小説や自己告白小説があれほど盛んに、明治末期から大正を通じて、あるいは今日までも、現れなかったであろうと思われてならない。その証拠には、龍土会会員で西洋近代文学を耽読していた者は、少なくなかったが、田山氏以前に、自己の実生活描写を小説の本道であると解釈したものは一人もなかった。

正宗白鳥が語る田山花袋6へ続く

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です