正宗白鳥が語る田山花袋6

正宗白鳥が語る田山花袋5からの続きになります。筑摩書房様が出版された「現代日本文学全集21 田山花袋集(二)」より正宗白鳥の田山花袋論の現代語訳を以下に全文記載します。そろそろ終わりが見えてきましたね!ところで、柳田国男は田山花袋については「物を直感的に見る力と、鋭く感じ鮮やかに語る才能」と評しており、またご自身も田山花袋について彼の死後、寄稿文を寄せています。

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島崎氏は、田山氏の「蒲団」以前に「旧主人」を書き、「水彩書家」を書き、「並木」を書き、自己の左右に小説のモデルを求めて、その真実を写さんと志していたらしく、子規一派の写生文も小説に事実直写の端をひらいたものと云えないことはないが、しかし、それ等は田山氏の自己暴露の自然主義文学は、客観的分子に富んだ文学で、花袋氏の独断にかかる自己の日常生活直写とは異なっている。西洋の評論家の定義によると、自然主義は写実主義の度の強いものを云うのだそうだが、花袋流に自分の生涯の打ち明け話しをするのはその本領ではなかった。田山氏も模範としていたゴンクールの「ジャーミナルラセルトウ」は、作者が叔母の家の下碑(かひ)をモデルとして、事実をそのままを写し取ったと、自分で自慢していたもので、自然主義小説の最上の見本とされているが、それにさえ、批評家の研究によると、幾多の作為の痕はあるそうだ。しかし、それは止むを得ないことで、出来る限り「真実を描くこと」「有るがままに描くこと」を目指すのは、創作態度として甚だよろしきを得ているのだ。この態度を田山氏が欧州の近代文学から学んだのはいい。しかし、自己の生活を無技巧の筆でぶちまけるのを文学の正道のように思ったのは、当を得たとは思われない。
 田山氏の提出した小説作法は、創作を容易なものと思わせた。作家が自己の心を開いて、自由に自己を語るのは、旧態を打破するにはいいことだが、想像力が萎縮し眼界が狭小になり、単調になるのを免れなかった。オーガスチンの懺悔録は作り物語よりも読み応えがする。ゲーテの自叙伝は彼の戯曲や小説以上に面白い。一葉の日記もその小説に劣らない妙味をもっている。パシカットセエッフ女史の日録も極めて面白い。普通人の心覚えの日記だって、生中(なまなか)の小説よりも興味があり有益である。しかし、純粋の戯曲や小説tは日記以外自伝以外の魅力を保っている筈だ。凡人の日記や自伝がすなわち芸術であるとは云えない。私なども、田山氏の感化に毒せられ、易きにつき、日記小説みたいなものを濫作して来た。創作の才能が乏しいから止むを得なかったのだが、私以外にも、そういう作品の多かったことを、私は回顧してむしろ呆れている。どんな作風でもいいものはいいのだが、凡人が何の変哲もない自分の生活を書いてそれで芸術だと思っているのに同感はされない。実録なら実名を用いたらよさそうなのに、自分や妻子や友人の名前だけを、小説的仮名に変更するのも嫌味である。今度読んだ三長篇にも、主人公やその相手の女やその他の人物の名前が、三篇ともそれぞれに異なっているが、読者たる私は、同じ男女だと思って読むのだ。主人公をも作者と異名同人であると思って読むのだ。兎に角小説として発表されているので、全部が実録でないかも知れないーたとえば「恋の殿堂」の終わりで、主人公が田舎で袋叩きにされて死んでいるのは、無論作り事であるがー読者がすべてを実録として鑑賞するのは当然なので、そういう読者の態度を、田山氏としても非難することは出来ない。氏自身の文学観はそういう鑑賞態度を取らせるように仕組まれていたのである。作者の私生活についてのゴシップ興味を読者が唆されるのも止むを得ないのだ。

正宗白鳥が語る田山花袋7へ続く

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