柳田国男と田山花袋2

柳田国男と田山花袋1からの続きとなります。以下、筑摩書房から出版された「現代日本文学大系11国木田独歩 田山花袋集」より柳田国男の「田山花袋君の作と生き方」の全文掲載となります。当時のままの送り仮名を、そのまま掲載しているため読みにくいかもしれませんが、ご了承ください。

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 ところが田山君とその同士たちは、あたかも今日の若き作家とは正反対に、文芸その世用の大小を計量せられることを忌み嫌った。何か対社会の使命でもある如くいわれると怒った。終始題材を自分の近まわりの、じっとして居ても集ってくる区域から見つけ出して、しかも決してこの方が処理し易いから、またはこの方が有効に、自分の見た真実を現わし得られるからとはいわなかった。そうして世間がその以外のものを期待する事を、心得ちがいのようにいうのであったが、それが私には自然主義の自分からの制限であり、一種後から理屈をつけた骨惜みであるように見えて仕方がなかった。
 一方私たちの方でも、もっとも純良なる読者の要求を代表しているつもりではあったが、その実はやはり楽屋に出入りする連中の、片よった見巧者というようなものに囚われて居たのかも知れない。ちょうどモデル問題などが、馬鹿々々しく論議せられて居た頃であった。もういい加減に家庭などを書くのは止(よ)して、もっと遠くへ出て「重右衛門の最後」のような場合に、ぶっつかって見るようにするといいといった。たれだって皆相応に精透なる自己の観察者だ。それを君だけの厳正な用意をもって、心のひだまでも引きめくって写しだそうとすれば、確実なる記録の遺ることは当り前だ。いまだ証明せられないのは、果してこの方法なり態度なりが、どこまで押しひろめて行かれるかという問題じゃないかともいって見た。あの折の気持に戻って見ることは出来ないが、何でも私は笑われたように記憶して居る。そんな問題ならとっくの昔、もう僕は苦しんで通り越して来て居るのだ。西洋でもたれとかはもっと詳しく論じて居る。二つ以上ある題材の中から、特にこの方をと思って取りあげたのでは無い。書くべく唯一つのものが与えられたのだという様なことをいって、断じてそうだなとは答えなかったのであった。
 兎に角私の説き方拙であり、またやや軽薄みにも聞えたことだけは今からでも想像することが出来る。あの際モデルに使われて腹を立てた二三の人が、ほとんど申し合わせた様に言った言葉は、事実は違っている真相はこうであった。それすら見抜くことも出来ないようでは、自然描写とやらも余り当てにはならぬ、といった様な悪(にく)まれ口であった。私は何の必要もないのに、思慮もなくそれに近いことをいったのである。君と二人で一緒に観た事でも、僕はこう解し君はああ感じて居る。態度さえ誠実ならたまの見損いはあったっていいといって、構わぬから出て見よと説く筈であったのが、却っておく病で引込んで居ることを、責めるようにも聞こえたかも知れない。何にしても三分の一程しか田山君を知らないものが、出過ぎた忠言を試みようとしたことが、却って同君の自然の進路を、累(わずら)わしたことになって居たならば悲しいことだと思う。
 もちろん自分をどこまでも見つめて居ようとすること、深く掘り下げて泉に達するまで、もしくはその底にも潜り入ろうとするのが、強いこの人の気質であったかもしれぬ。また平心に外部から観望しても、たしかに興味多き一つの生活であった。遺伝にもはた境遇にも幾つか悲劇的要素は含まれて居た。しかし求めてその性情の変化展開を試みようとせぬまでも、仮に僅でも自分を小説にした方がよいという心持が、彼の中年の平和に影響して居たとすれば、私は今少しく自由なる境地に置いて、彼を自然に成長せしめなかったことを悔恨せざるを得ない。

柳田国男と田山花袋3へ続く

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