柳田国男と田山花袋3

柳田国男と田山花袋2の続きとなります。以下、筑摩書房から出版された「現代日本文学大系11国木田独歩 田山花袋集」より柳田国男の「田山花袋君の作と生き方」の全文掲載となります。当時のままの送り仮名を、そのまま掲載しているため読みにくいかもしれませんが、ご了承ください。また、今回で柳田国男と田山花袋は最後になります。おつき合い下さった皆様方、ありがとうございます。柳田国男と田山花袋の研究の一助となれば幸いです。

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 いわゆる自然主義の流行をもって、単なる明治文学史のある一期の現象のように解することは、今は何よりも事実がこれを許さぬであろう。人がこの名前を喜んで名乗るか否かは別として、兎に角に文芸に趣向という語が、入用で無くなったのはあれからであった。自分で観て来た感じて来たということに、大きな尊敬が支払われるのみならず、しばしばその報告の精密さと真率さが、技巧の欠乏を補うというよりも、寧ろ技巧そのものとして受取られる事になったのもあれ以来のことである。新たなる人間記録はかくの如くにして、尚この上にも集積せられんとして居る。私にはこれを他の一つの門口から、持込まれた傾向とは見ることが出来ぬのである。曾(かつ)ての田山君らは無論この様に放漫なる定義に概括せられることを諾しなかったろう。または気六つかしく差別の見を立てたでもあろうが、あの人たちとても各自の変遷をもち、また相互の特色を具えて居た。文学は由来貨幣などとちがって、同じだといえば却って通用が困難になるものだ。だから能(あと)うべくんば毎年でも、異を立てて前進しようとするのでえあるが、そのために底を流れて来た個人以上の力、もしくは共同の功績とも名づくべきものを、無視してしまう事は不可能である。
 独り遠くから眺めた文芸の国ばかりに、そういう事実があるというのでは無い。たとえば我々の携わって居る社会科学の方面でも、名士の独断なるものが必ずしも傾聴せられず、次第に銘々の分担をもって、もう一度直接に観察しまた記述して置こうとする学風に向って来たのは、一半は少くとも文学の自然主義の影響で無かったとはいわれぬのである。殊に私などが題目の大きい小さいについて、丸で世間と懸け構いの無い尺度をもち、果して現実の用途があるか否かを確かめなくとも、平気で記録を取って遺して置くことが出来るようになったのは、善かれ悪かれ、とにかくに田山君の感化であった。それを生前に話して見る機会はなかったかも知れぬ。今までの文士は一様に至って無邪気であった。いわゆる突っ込んだ描写を要件とした作物が、世上に与える恩恵について無知であった。自ら社会の観測と記述とを、職務として居ると称する者が、実は技能において遙に劣って居ることに心づかなかった。いわゆる暴露文学の大いに起るべき素地は、早くからあったのである。それが正直にしてかつ無理の無いものだったならば、当然に我々を学ばしめたのであった。しこうして我田山君の作品などは、期せずして自らそれであったと思う。
 昔自然主義の過渡期に青年であったものは、幾度か無益のき憂論を聴かされて居た。人をもし単なる生物の一つとして、その生き方を見て行こうとすれば、人と人との間の情愛はどこへ行くという類の言葉が、もっとも沈着なる人々の口から出たのであった。今においてその言の当たらなかったことを、これも私は確に実験し得たのである。田山花袋君の死はその多くの旧知によって、大いなる樹木の倒るるにたとえられたが、私は殊にその若き苗木の日を知り、茂り花咲いて色々の鳥の、来り息(いこ)う光景を仰ぎ見た上に、更に落木しょう条の風の音をさえ聴いたのである。仮りに本物の樹であってもやっぱり悲壮である。ましてやこの一個の生存には、その後に色々の現実が続いて居る。六十年もかかってまだ生き尽し得なかった田山君の生き方は、我々に取っていつまでも歴史で無い。
                  (昭和五年五月十九、二十、二十一日)

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