佐藤春夫の詩に関する自叙伝

以下、(株)創元社様が出版された「全詩集大成 現代日本詩人全集5」より佐藤春夫の「詩に関する自叙伝」の現代語訳の全文です。手前勝手な現代語訳であるため、一部正確性に欠けることがあるかもしれません。その点につきましては、ご了承ください。また、ウィキペディアの佐藤春夫のページに同人誌の表記が「はまふゆ」となっていますが、正しくは「はまゆふ」となります。

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 明治二十五年(壬辰)四月九日、和歌山県新宮市新宮(当時は東牟婁郡新宮町と云い郡役所所在の地)舟町に、父豊太郎、母政代の長男として生まれる。父祖は九代、代々医を業としており那智山南麓下里町高芝八咫鏡野(やたがの)に居住して堂号を懸泉堂と云う。新宮に移り住したのは父の代に始まる。祖父は鏡村と号して漢詩集一巻を遺し、また曾祖父椿山が全家族の吟詠を編んで懸泉堂歌集と名づけたる一巻あり、父鏡水(後年文字を改めて梟睡)は俳諧に遊び書画の趣味に富む。蓋し詩歌は一族に伝来のたしなみである。
 町立丹鶴小学より県立新宮中学校に入る。中学在学中、最上級の和貝彦太郎は夕潮と号して新詩社の同人であった、他にも地方に新詩社同人が四五人居たため、中学三学年の頃、文学書の嗜読のため進級協わず、第二回目三学年の頃より和貝夕潮の指導によって新詩社風の短歌を習いはじめ、かたわら自己流で詩の習作もあった。同人の廻覧雑誌「はまゆふ」がはじめて活版印刷される機会に表紙画をものしたのは烏をシンメトリカルに図案化したものであったとおぼえる。当時から画にも趣味があったのである。
 詩の最初の習作は、新宮、木の本間を当時通っていた馬車の馬が微風に吹かれながら海ぞいの松原路を夏日、汗まみれに光りながら泡を嚙んで車を運ぶ様を歌った写生体の五七調(?)十二の三行のものであったと思い出す。署名には潮鳴と記した。泡鳴が活動期に入った頃で、その号に倣ったかと思うが、別に泡鳴の詩風に同感したのではなく、家の臥床で夜毎に海鳴りを聞きつつ詩を思ったのを記念して一時の号に用いたが、ほんの一二回で使うのはやめた。この頃の作は全部散佚(さんいつ)したなかで後年殉情詩集を編んだ時、自然に思い出したもの、たとえば「夕づつに寄す」の如きはこれを加えて置いた。
 十九歳で上京して末期の新詩社に加わり多く短歌を試みる傍ら詩を習ったのが性に合ったかいつしか短歌はやめて専ら詩作に移った。その頃の詩友は生田春月で、春月とともに長江先生の門に在ったから先生からハイネ、ゲーテ、ニイチェ、ブレーク、イエツなどの海外古今の詩家及詩に就いて多く啓蒙されるところがあった。同時に新詩社に出入りしてスバルや三田文学などに時折の習作を採録される好機会に恵まれた。三田文学に採られたのは、当時三田の学塾に学籍を置いたためである。在学実に四年半に及んだが一度進級したきりで終いに本科に学ぶ事なく廃学した。学校教育というものには中学時代から不信を持っていたためである。
 他からは教わったものは他事によらず決して身につかない厄介な性分だから致し方なく微力を尽くして自分勝手に同時代のものの外、国語の古典や漢籍などは少しく目をさらすところはあったが概してなまけものである。
 そのくせ好んで読み書くのは、少年時代からの不眠癖があるため、自然夜の時間を読み書きで過ごすのが習慣になった。こういう体質と人間ぎらいの非社交性とが自分に詩をつくらせるのかと思う。かくて詩は自分にとって生活の必需品に似ている。思うに命のある限りは歌うであろう。もう二年もすれば自分の詩の年齢も五十になる。
 新詩社の詩友に負うところの多いのは申すまでもないが就中(なかんづく)「うた日記」「沙羅の木」など森鷗外の詩業を反復精読して自得するところがあった。

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