正宗白鳥による谷崎潤一郞と佐藤春夫人物評伝4

正宗白鳥による谷崎潤一郞と佐藤春夫人物評伝3の続きです。中央公論社から出版された正宗白鳥の「文壇人物評論」から「谷崎潤一郞と佐藤春夫」の現代語訳を以下に全文掲載しております。手前勝手な現代語訳であるため、正確性に欠ける点があるかもしれません。その点につきましては、ご了承ください。内容も佐藤春夫から始まり、谷崎純一郎の色が文章に入り始めいよいよ両者の色が混在し始め谷崎の色が強くなってきました。

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「蓼喰う蟲」以後の谷崎君の作品には、初期の作品につきまとっていた臭気が脱け、絢爛だった色彩味を帯び、作家が渾然たる芸術の境地に達し切っているように、私などは敬服した。「まんじ」にしても、「吉野葛」にしても、「盲目物語」にしても、材料が異なり着想も異なっていながら、それぞれに古典的完成を遂げている。初期の作品には江戸末期の趣味が連想され、浮世論と共通している芸術境が窺われたが、近来の作品には、もっと古い日本の古典の味わいが伝えられている。日本の伝統的文学の妙味は充分に吸収されて、それに作家の主観が活躍しているのだから申し分のない訳である。「まんじ」の如きは、古典趣味とは余程異なっているようだが、作者はこの小説に於いて、洗練された大阪言葉に興味をもち、そういう日本語の美をあらわそうと努めている。
…私は、今此処でで谷崎君の小説に対する讃美の辞を繰り返すために論評の筆を進めているのではないので、「日本文学の伝統」ということについて、最近の感想を述べたくなったのである。谷崎君の初期から最近までの文学経路を見ていると、西洋文明模倣時代の日本に成長しながら、この作者はさほどには欧米文学に感化されず、日本の伝統美を発揮していることが明らかだ。佐藤君だって、自分が発行している雑誌を「言霊」と名づけたほどあって、日本の言語文字を尊重しているらしい。島崎藤村氏の「夜明け前」には復古思想が見られるが、藤村氏とか晩年の?外氏とかを、特に取り上げるまでもなく、四十を過ぎ五十を過ぎた作家は、青年期に一曲(ひとまがり)に西洋礼賛をつとめていたにしても、次第に、自分で意識しないうちに、伝統の日本趣味に復帰するものらしい。西洋の作家が年を取ると、カトリックの宗教信者になりたがるのと同様である。先日、ある新聞にファシズムのイタリアでは、国語の純化運動が盛んで、「広く使用されている外来語をすべて廃止」せんとする計画があり、料理屋の名前でも床屋の看板でも、日常の生活用語でも古典的な表現法が用いられだしたと報道されていたが、国粋主義が勢力を揮いだしたこの頃の日本でも、そういう傾向が起こらないものであろうか。カフェの看板語や、マルクス論者の用語のような無難な外国語が一掃されるのはいいことであるが、谷崎君などは伝統趣味によってああいう傑れたる芸術を造り出した。しかし、その態度を真似てばかりいられない作家も多いに違いない。
 小山内薰君などの翻訳心境を、私などは晒す訳にいかない。今日の青年作家の幼稚な外国文学模倣をも、一概に蔑視されないのである。私には、万葉の和歌や芭蕉の発句だって、それほど有り難いものには思われない。怪しい外国語の学力で辛うじて皮相なところをのぞいて真似をしたって、はじまらない訳だが、過去を顧みても故郷の風色は落莫としている野口米次郎氏などは日本浮世絵を激賞しているが、浮世絵が日本特有の美感の現れにはちがいないとしても、それが痴呆美であるところに、多少の興味を寄せながらも、一種の侮蔑を感じるのは、私一人だけなのであろうか。婦人画ばかりではない、役者絵を見ても、それ等浮世絵師の多くは、そこに、人間に潜んでいる威力をも魂をも、我々に示して呉れないのである。西洋人が異国情緒に自己陶酔をして褒めてくれたために、それにかぶれて、俗人に媚びるのを目的として描かれた低級な芸術を理屈をつけて激賞するのに、私は同感し得られないのである。
 
 こういう浮世絵と手を取り合って共存共栄をした旧幕の戯作者文学を振り切って、新しい道に進んだのが、「小説真髄」以来の明治文学者の態度であって、伝統無視偶像破壊が、今日までの間にしばしば志されて、最近では反宗教反ブルジョア文学唱道のマルクス主義文学も起こったのだが、伝統破壊は、今なお上っ面だけに過ぎないことを、我々もおりおり考えさせられる。国民の他の思想に比べて、文学芸術だけが特殊の道を進む訳には行かないと見えて、いつとなしに国粋の色彩が濃厚になるものと思われる。日本の文学を罵倒して外国の名作を激賞し、それ等に心酔しているらしく云っていた高山樗牛(たかやまちょぎゅう)も、本当は日本主義者であった。「偶然に生をうけたる国土の如きは、我故郷とするに足らず」と揚言した内村鑑三氏も、本当は、武士道的日本の讃美者であり愛国者であった。芸術や思想に国境なしというコスモポリタン的考えは、人間の本性に適しない浅薄な考えかも知れない。だから、日本の伝統の文学芸術の真価がどうでろうとも、我々はそれに勿体をつけて讃美し、それを守り立てていくのが、正しい道でアルかも知れない。そこへ行くと、谷崎君の如く、無駄な会議に悩まされないで、伝統的文学趣味を抱擁しながら、自分の芸術を築いて行ける作家は幸福である。

正宗白鳥による谷崎潤一郞と佐藤春夫人物評伝5へ続く

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