正宗白鳥の菊池寛論3

正宗白鳥の菊池寛論2 の続きとなります。中央公論社から出版された正宗白鳥の「文壇人物評論」から「菊池寛論」の現代語訳を以下に全文掲載しております。手前勝手な現代語訳であるため、正確性に欠ける点があるかもしれません。その点につきましては、ご了承ください。
正宗白鳥の菊池寛論も意外なところへ話しは転がって行っております。

 菊池君は、人として現代の代表者であるとともに、作家としても現文壇の代表者である。この頃盛んに宣伝されている新潮社の「長篇小説集」でも、春陽堂の「戯曲集」でも、まずその第一回配本に菊池寬集を選んでいるのによっても、氏が現代の代表的作家として世間から認められていることが察せられる。
 私は、今度、氏の長篇通俗小説「新珠」を通読した。それから、大正九年軽井沢に避暑していた頃、日々新聞で何回かを走り読みした「真珠夫人」と、先年「婦女界」で二三回だけ読んだ「受難華」とを、飛び飛びに読み直した。そのうちで、「新珠」が作者特異の作ではないかと思われる。
 しかし、現代の文壇に跋扈しているいわゆる通俗小説なるもを、殆ど一つも読んだことのなかった私は、「新珠」一巻を読むにも苦しい忍耐を要した。老いて、少女愛玩の小説に親しむことのいかに難きかを知った。

 それでは、拙劣な作品であるかというと、決してそうではない。私などは無論こういうものは、書こうったって書けないだろうし、他の知名な通俗作家達の作品の中にも、このくらいなものは、そう手易く見つからないのではあるまいかと、私はまだ広く読まないさきから想像している。
 通俗的見地から批判すると、「新珠」は、用意周到を極めた作品である。日本画の大家の未亡人が、子女の不名誉な妊娠についても、さして心を労しないで、相手の男を勝手に出入りさせたり、姉娘の行方不明を一年もほっちらかして平気でいたり、ことに、良家の三人の姉妹が、芸者か娼妓のごとく、日常の仕事のように、互いに色恋の競争をしたり、色っぽい話しを、姉妹同士で臆面もなくしあったりするなんか、私には不可解な世界として映ずるのであるが、ここらが頭塔未発達な婦女子の読物たる所以であろうと、譲歩してみると、全編の構図、人物の配置、会話の呼吸など、用意周到を極めている。三人の姉妹はそれぞれに性格を異にして、中心の男性たる不良青年に対する態度が順々に変わっていくところなんか、思いっき妙を得て、年少の読者を釣っていくのであろう。モーパッサンなんかは、こういう世相の描写は手に入ったもので、短篇では、伊太利かどこかへ旅した蕩児が、最初娘のうちの年上の女を手に入れ、その次の旅には次の女を誘惑し、まだ一人若いのが残っていると、ひそかに楽しんでいる気持ちがスッキリと書かれてあったが、
「新珠」には、不良青年に配するに、ある殉情の男をもってしている。婦女子の読者はこうでなければ、満足しないのであろう。
 私は、読みながら、数十年前に読んだ「魔風恋風」や「青春」を思い出して、時代の相違を考えた。楽々と書きこなして、ギゴチないところのないのは、「新珠」の方がこと上の二長篇にすぐれている。風葉の「青春」のうち「あなたは天才だわ」と、女に褒められて、「僕が天才?」と、男が目を見張るところなんか、私は若い頃に読んでさえ、胸の悪くなるくらいいや味に感じたのであったが、「新珠」では、いや味になりそうなところが、割合にすっきりと書き流されている。
 現代児菊池君は、現代の若い女性の喜びそうなことをよく知っていて、よくそれを書き現わしている。しかし、空々しい筆や皮肉な筆を用いないで、熱心に書いている。「じゃ、つまりお姉さまのおっしゃっることは、女子教育家などが云っていることと、同じね。つまり処女時代の貞操を尊重せよと云うことね。ありがとう。お姉さまのお言葉を有り難く聴いておくわ。でも、妾の考えは少し違ってよ。妾、本当に愛する人ができて、またその人が妾を、本当に愛していてくれるのなら妾凡てを捧げるつもりよ。妾、お姉さまにそれだけは云っておきたいわ」
「魔風恋風」や「青春」には見つからなかった台詞であって、現代の一部の若い婦女子の拍手喝采を得るところである。
「恥ずかしいなんて、生涯の大事だわ。羞恥のために生涯の大事をあやまるなんて、そりゃ旧式の日本婦人のことよ」
「女性全体から選ばれて色魔的な男性を懲らす選手になったつもりでいますの」
 その他、さまざまな、現代の若い女性の拍手を促すような台詞が散乱している。
 しからば、私のような現代女性について知るところの少ないものは、「新珠」を読んで、大いに啓発されたであろうかと考えるのに、「今の婦女子はこういう小説を愛読している」という点で、現代の女性の心理が想像されるばかりで、女性そのものの本態や人生の真相については、さして得るところがなかった。こんなに長ったらしくなって、従って時間を浪費しないで読み得られた同じ作者の幾つかの短編小説や戯曲ほどの感銘は得られなかった。
「人間の業は、はてしなく巡転するものである。人に負わせた苦しみは、いつの間にか自分の身に巡転して来る」など、作者の人生に向かった観察は、正しくっても、筆が皮相を撫でて深く抉ったところはなさそうである。私をして倦怠を覚えさせるほどに長ったらしい癖に、姉妹の嫉妬煩悶が、少しも熱火を帯びて現れていない。上すべりの綺麗事に過ぎぬ感じがある。これは、婦女子を喜ばせるためにわざとそういう筆使いをしたのではなくって、作者自身の心境がそうなのではあるまいか。

正宗白鳥の菊池寛論4へ続く

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