寺田透が葉山嘉樹と横光利一を語る3

寺田透が葉山嘉樹と横光利一を語る2の続きとなります。筑摩書房が出版した「現代日本文学全集67 葉山嘉樹 小林多喜二 中野重治 集」において寺田透は「葉山嘉樹一面」という解説を寄せていますが、内容的に葉山嘉樹と横光利一との当時の文壇上における比較や対向について言及がなされています。
ここでは、『』内の文章は全て上記の解説から引用し現代語訳をした上でまとめて紹介しております。また、この語りも今回で最後になります。読んで下さった皆様方の研究の一助になれば幸いです。

『心理描写にしても横光の場合は、模様を描くことだった。彼の作品のうちに、理智の操作によって図式化された感情の論理はあっても、その図式をうちに抱き、それを本当の生きた人間の心理たらしめる魂の振動はつかまえられていないのだ。実際小説技法としての心理分析は、いつの場合でも、なんらかの感情を抱く人間から抽象されたその人間の論理的意識活動の言いに過ぎなかったようである。それは文字にされると、もう震えも揺らぎもできない抽象体である。それは、図案と同じように、読者の追体験を許さない、眼と頭だけの問題なのだ。
 ところがわれわれの追体験を許すような、魂の状態そのもに表現が与えられることこそ重要なのである。心の理屈などは聞きたくもない。葉山嘉樹の作品は、自然主義文学の凋落以来、というか、シネマの流行以来というか、ともかく、われわれの周囲から影をひそめたそういう種類の文学に属している。
 ~中略~
 あらゆるものは、それが存在する以上、かならず他者との関係のうちにある。その認識が、これほど自然に明るく、告白の形式そのものによって表明されるためには、長い道程と試練の時が必要だったのは言うまでもない。それを僕は、古い彼のプロレタリア作家としての業績の中から見い出す。
 未完に終わってはいるけれど彼自身、自信作の日乙に数える「誰が殺したか」又は「鼻をねらう男」などという作品で、彼はみじめな個人の経験が、いかなる社会的拡がりを持ち得るものか、実地に証明した。そしてその証明を可能ならしめたものは、自己の存在の諸契機のうちに社会を認め、その方向に自己の動きを追って行く、まことに私小説的な実践だったのだ。』

色々と横光利一について書かれていますが、横光利一は「寝園」という作品で、大衆文学の読者にも読めるように純文学的手法を使った小説を残しています。この作品は、今まで描かれることのなかったブルジョア階級の社会性を小説にした画期的な作品で、正宗白鳥も紫式部がサロンを小説にし、昭和のサロンはこの作品でもって横光利一が書いたと「横光利一論」の中で褒めています。
夏目漱石もブルジョアを描いた小説を残していますが、彼はあくまで一個人を題材に扱った作品で社会性を伴ったものではないため、それが正宗白鳥の高評価に繋がったようです。

また、昭和9年(1934年)頃の新感覚派は「文芸時代」を拠点に展開されていましたが、既成文壇への反抗、新興文学のコミュニズム文学、マルキシズム文学との対決の矢面に立たされていました。横光利一は、新感覚の代表でもあったため下記の言葉を残しています。

 私は古い情緒の纏綿(てんめん)する自然主義という間延びのした旧スタイルには、もはや忍耐することが出来なくなって反抗を始めた。それと同時に、来つつある新時代の道徳と美の建設に余儀なくとりかからねばならない状態となったが、この時、早くも唯物史観がわが国に顕われた最初の実証主義となって、精神の世界に襲って来ていたのであった。この思想の襲来のさまは日々刻々激しくなり、天日のために暗澹となるかと思われたほど一世を風靡した。われわれ芸術派は自然主義の堅類と闘う鉾を、この思わざる強敵に向け闘わねばならぬ運命となって来た。

横光利一が書いた河出書房「三代名作全集」の内「横光利一集」における「解説に代えて」には、このように零しています。

そして、昭和20年(1945年)8月に終戦を迎え、10月に葉山嘉樹は列車の中で病死し、横光利一も昭和22年(1947年)12月30日に病死しました。寺田透にとっては、この二人は相反した存在ながらどこか近しい者同士のように感じていたのかもしれませんね。
最後に、寺田透の締めの文章を掲載してこの語りを終わります。

『以上の文章を書いてからちょうど、一年たったが、当時僕をもっとも強く動かしていた葉山の文章が「印度の靴」であったことを思い出す。

  青い海は、黒く暮れていた。
  船首の噛み砕く泡だけが、山間に流れる小河の飛沫のように、チラチラと白く見えた。
  羽生は、船館(ママ)を離れた。タラップを降りて船尾のハッチへ行った。
  「ラム・サラップ」
  「ハウ。」
 この文章のあとにつづく哲学と貧困と貴族の靴に関する一見寓話めいたい会話にはプロレタリアのアンニュイがある。そのアンニュイの韻律がたしかにこの会話の流動のうちに生かされている。僕はそのアンニュイにしのび込まれ、それを愛撫して、葉山に接近するよすがとした。
 何となれば、アンニュイほど一つの生活様式に関する熟通の証拠はないからである。(昭和二十四年-二十九年)』

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