川端康成が横光利一を語る2

川端康成が横光利一を語る1からの続きとなります。以下、『』内の文文章は中央公論社が出版した「日本の文学 横光利一」より川端康成が書いた「解説」から引用したものとなります。川端康成と横光利一の研究の一助になれば幸いです。

第2回目は『「文芸時代」のころ』『新感覚派の担い手として』をご紹介しましょう。

「文芸時代」のころ 「春は馬車に乗って」、「花園の思想」はその前夫人の病と死とを書いて、横光氏の美しい挽歌である。「花園の思想」に、「お前は、俺があの汚い二階の紙屑の中に坐っているころ、毎夜こっそり来てくれたろう。」「俺はあのころが、一番面白かった。お前の明るいお下げの頭が、あの梯子を登った暗い穴のところへ、ひょっこり花車のように現われるのさ。すると、俺は、すっかり憂鬱がなくなっちゃって、はしゃぎ廻ったもんだ。とにかく、あのころは、俺も貧乏していたが、一番愉快だった。」とあるのは、横光氏の思い出でもあり、述懐でもあるだろうが、私もその「汚い二階」の下宿を覚えている。
 ある夜、その小石川餌差町の下宿に横光氏を訪ねて、二人で散歩に出た。春日町、水道橋から、神田の通りを遠歩きして、下宿の近くまでもどると、「今夜嫁が来ることになっているんだ。寄ってゆかないか。」と横光氏が言った。私はおどろいた。そんな話はまるで聞いていなかった。私は結婚の当夜とは知らないで散歩していたわけである。
 また、横光氏の二度目の婚礼のために、私は伊豆湯ヶ島の長い逗留から、湯本館の主人の紋付袴を借着して上京した。上野の精養軒での披露宴が終わった後、横光氏は私に言った。「君、今夜は泊るところがきまっていないんだろう。僕らは逗子のホテルに行くんだが、いっしょに行こう。」まさか新婚旅行についてゆくわけにはゆかなかったが、そんなこともあった。昭和二年である。』

横光にとって川端は、気の置けない友人というより、もう家族も同然の印象を受けますね。

『金星堂というのはちょうどこのころまで横光氏らと出していた同人誌「文芸時代」の発行にあたってくれたところで、その扉に「菊池師に捧ぐ」と献辞してある横光君の第一創作集「御身」が出たのも、ここからであった。片岡氏、石浜氏、菅氏も「文芸時代」の同人であった。』

横光と彼の師である菊池寛の関係は面白く、普段、菊池は明るい取り巻きや、ちやほやしてくれる人と遊んだそうですが、いざ何事かあればお互いきちんと心と心を通わせる会いかたをしていたそうです。
なぜ、いつも菊池と横光は会って遊ばなかったというと横光はいつもむっつりと腕を組んでいて面白くなかったからだそうです。菊池寛は横光に対して深い信頼を寄せていたそうで、その信頼を疑わなかった上でのつきあい方だと思いました。

『「蝿」は、大正十二年の五月、「文芸春秋」に創作が載るようになった、その最初の号に、三宅幾三郎氏、佐々木味津三氏、中河与一氏、鈴木彦次郎氏、石浜金作氏、加宮貴一氏、片岡鉄兵氏、それに私の作品とともに発表されたもので、ここに挙げた顔ぶれはいずれも後に「文芸時代」の同人に連なったものでもある。私たちは「文芸時代」の同人である以前に「『文芸春秋』の同人」であった。』

一般的に、横光・川端・片岡らを指す「新感覚派」は、大正13年10月に創刊された同人雑誌「文芸時代」から始まったとされています。創刊の翌月、評論家である千葉亀雄が「新感覚派の誕生」を書き、これら「文芸時代」に掲載された主要な人達の傾向を指して新感覚派と命名しました。これが、新感覚派の誕生であるとされています。
ですが、上記のように川端の言うところ必ずしも共通の文学上の目標を掲げ、集まった訳ではなく、自然に集った同人たちで雑誌を発刊したところ第三者の指摘によって自分達の集団としての姿を認識するに至ったというところでしょうか。
これ以降、川端を含む「文芸時代」の同人たちは千葉の名称を積極的に受け入れ、文字通り「新感覚派」として活躍します。

新感覚派の担い手として 横光氏が後年、河出書房から出た「三代名作全集」の一冊「横光利一集」の巻末に添えた「解説に代えて」は、自らの文学の道程を振り返り、その変移をも明かして、横光利一自解として珍重すべき一文であると思われるので、そこから、「蝿」、あるいは「日輪」のころをかえりみているところを抜書きしておく。~中略~
 初期の「最後の作」と言っている「日輪」と、「一番初めに書いたもの」と言っている「蝿」とは同時に発表を見たもので、いずれにも相当の歳月が注がれて成った作品であることは明らかであるが、この二作が文壇の注意を招いたその年、大正十二年は関東大震災の年であった。

 最後の作が処女作となると同時に、大正十二年の大震災が私に襲って来た。そして、私の信じた美に対する信仰は、この不幸のためたちまちにして破壊された。新感覚派と人々の私に名づけた時期がこの時から始まった。眼にする大都会が茫々とした信ずべからざる焼野原となって周囲に拡がっている中を、自働車という速力の変化物が初めて世の中にうろうろとし始め、直ちにラジオという声音の奇形物が顕われ、飛行機という鳥類の模型が実用物として空中を飛び始めた。これらはすべて震災直後わが国に初めて生じた近代科学の具象物である。焼野原にかかる近代科学の先端が陸続と形なって顕われた青年期の人間の感覚は、何らかの意味で変わらざるを得ない。(「解説に代えて」)

 横光氏がこのように言っている新感覚派の時代はおおよそ昭和三、四年ごろまで続くのであるが、「静かなる羅列」はこの間に発表された、まさに横光氏の流儀による新感覚的と認められる作品である。関東大震災は新感覚文学の誕生の一つの明確なきっかけを与えるような大きな異変であったので、それからほぼ十年を経過した昭和九年の初め、横光氏は、「大正十二年の関東の大震災は日本の国民にとっては、世界の大戦と匹敵したほどの大きな影響を与えている。」(「異変・文学と生命」)とまで書いている。』

巨大地震が国民に大きな影響を与えているーなんだか、今の日本を彷彿とさせる文章ですね。
現在の日本も、いろんな道具やツールが次々に登場し自分などはついて行くだけで精一杯な部分があります。恐らく、当時の横光らが受けた衝撃は我々以上に計り知れないものがあったのではないでしょうか。

川端康成が横光利一を語る3へ続く

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