川端康成が横光利一を語る3

川端康成が横光利一を語る2の続きになります。以下、『』内の文文章は中央公論社が出版した「日本の文学 横光利一」より川端康成が書いた「解説」から引用したものとなります。川端康成と横光利一の研究の一助になれば幸いです。

第3回目は『「上海」「機械」』、『大作「寝園」』についてご紹介しましょう。

「上海」「機械」 「上海」が書かれたのは昭和三年から六年にかけてであったが、その主たる部分は三年、四年に書き終えられていた。横光氏の最初の長篇であって、新感覚派の手法の集大成とも見られる。昭和七年、改造社から慣行するにあたって附した「初版の序」には、「この作の風景の中に出て来る事件は、近代の東洋史のうちでヨーロッパと東洋の最初の新しい戦いである五三十事件である」、』

五三十事件とは、中国は上海で起こった事件のことです。これは、大正14年(1925年)に上海では深刻なインフレからデモが発生し、鎮圧のために租界警察が発砲、学生と労働者13人の死者と40人余りの負傷者がでました。

『「私はこの作を書こうとした動機は優れた芸術品を書きたいと思ったというよりも、むしろ自分の住む惨めな東洋を一度知ってみたいと思う子供っぽい気持ちから筆をとった。」とある。こういう言葉もあるところからすると、横光氏の最後の十年をついやしてなお畢生の作に終わった長篇「旅愁」に取り扱われている東洋と西洋の問題も、すでに早くから関心されていたと見るべきだろうか。「旅愁」が昭和十一年の渡欧に因を発しているのと同様に、「上海」には昭和三年に上海に約一月遊んでの見聞が作用している。
 横光氏は「上海」には「捨て切れぬ愛着」をいだいていて、昭和十年、書物展望社から「決定版」の「上海」を出すにあたって、自ら「最も力を尽した作品である」とこの作を言い、「私はそのころ、今とは違って、まず外界を視ることに精神を集中しなければならぬと思っていたので、この作品も、(中略)自然を含む外界の運動体としての海港となって、上海が現われてしまった。」とも書いている。横光氏が外面を見ることから内面を見ることへ、感覚的手法から心理的手法へ移ろうと試みたのもだいたい「上海」を境にしてのことであった。』

昭和2年(1927年)は横光利一にとって慌ただしい年で、2月に菊池寛の媒酌により日向千代子と結婚します。5月には「文芸時代」を廃刊し、大正13年(1924年)からの短い雑誌の歴史を閉じます。
また、この年は7月に芥川龍之介が亡くなるなど文壇にとっては大きな変化があった年でした。
続く、昭和3年の2月には菊池寛が第一回衆議院議員選挙に社会民衆党から立候補したため、その応援演説をします。そして、4月に上海に30日間滞在し帰国。
昭和4年に入ると、10月に川端康成、堀辰雄、永井竜男、深田久弥らと一緒に「文学」を第一書房より創刊します。

『「鳥」も「機械」も昭和五年の発表であるが、それは「最も苦中な時期」から「心理的主義すなわち人間主義という確信おのずから生じて来たのと等しく、唯物史観と自然主義の包囲陣を脱出する血路を見いだした」時期に移る転機を形作った画期的な作品であった。小林秀雄氏が「機械」を評して、「世人の語彙にはない言葉で書かれた論理書だ。」と言ったのはあまりにも有名だが、「心理主義すなわち人間主義という確信」は作家としての横光氏の倫理であったとも見られる。』

昭和5年(1930年)は5月に痔疾(じしつ)のために2ヶ月入院するなど、横光の体に変調があった年でした。この時、彼は32歳です。徳田秋声も晩年に痔瘻(じろう)になって入院しているので、座り仕事である小説家には案外多かった病気なのかもしれませんね。余談ではありますが、痔疾より痔瘻の方が重篤な症状です。

大作「寝園」 「寝園」も昭和五年から書き始められた。横光氏は数え年の三十三歳である。「東京日日」「大阪毎日」に連載された横光君の最初の新聞小説であった。「機械」と「寝園」とが同年の作品であることは、両作が一見まったく異質の作品のようでありながら、照映し合い、交流し合い、たがいにその意味を深め合っている点で注目される。あるいは「機械」が苦業の不幸を匂わせているのにくらべると、「寝園」は明発の怡和(いわ)の色を見せているとも眺められるであろうか。
 ただし、「寝園」の続篇にあたる部分は昭和七年に「文芸春秋」に連載されていたものである。「寝園」は「上海」に次ぐ横光氏の長編の第二作であったわけだが、以後、「旅愁」を別として、「上海」の型の長編はほとんど現われなくて、長編といえば「寝園」の心理主義の流れを受けたから、「寝園」が横光氏の長編の出発とも言えるであろう。
 「このときから私は短篇を次第に放れて長篇に意欲が動き始めたのを思い起こす。」と「解説に代えて」に書いたのも、「寝園」を念頭にうかべてのことであったろう。「寝園」の新聞連載を終えて後、横光氏は「花花」、「雅歌」を婦人雑誌、新聞に連載している。「寝園」の続篇の連載を終えての翌年(昭和八年)には「紋章」を書き始めている。「伝統という地下水」の流れに行きあたったのはこの長篇のあたりからであった。そして、「旅愁」という大河に棹(さお)さすに至るのである。~中略~
 小林秀雄氏は「機械」について、「この作品から倫理の匂いをかがぬ人は楽書を読むに如(し)かぬ。」と言っているが、おそらく「寝園」もそうなのであろう。「機械」にもお人好しがいる。ネームプレート工場の主人がそれで、人を信じて疑わぬ「底抜けのばかさは」、「よほどの人物でないと出来るものでなく」と書かれ、この主人は、「寝園」の仁羽に通じ、次の長編「紋章」の雁金にも一脈通じているのかもしれない。奈奈江や梶はその後の横光氏の長編にしばしば面影を浮かべ、「旅愁」の千鶴子や矢代にまで続いているようである。横光氏はこれらの人物を理想化し、善意を注いで大切に扱い、苦悪に沈め、地獄に墜(おと)すことはようしなかった。~中略~
 苦業の不幸を匂わせているとも見える「機械」に点じられた主人の善良が救いとなって光っているように、「機械」の系統を引いた昭和六年作の「時間」の心理の綾糸、図式、あるいは交響、波動の根底に私は横光氏の仏心とも、心理主義即人間主義の倫理とも受けられるものが作用しているように思えてならない。』

川端康成が横光利一を語る4へ続く

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