川端康成が横光利一を語る4

川端康成が横光利一を語る3の続きとなります。以下、『』内の文文章は中央公論社が出版した「日本の文学 横光利一」より川端康成が書いた「解説」から引用したものとなります。川端康成と横光利一の研究の一助になれば幸いです。今回で、日本の文学からの引用を終わり、次回からは筑摩書房が出版した「現代日本文学全集65 横光利一集」に掲載されている川端康成の解説を紹介します。

第4回目は『肉体の中に現われていた時代』、『遺稿「微笑」』と川端康成が横光利一に送った弔辞についてご紹介します。

肉体の中に現われていた時代 横光氏は昭和十四年、数え年四十二歳の時、十年ばかり前の自作「機械」、「寝園」を顧みて、次のような感慨ももらしているのである。

 
  自分のたいていの作品はそれを書いているときの考え方が眼に見えて、あのときはあのようなことを、そんな風に考えていたのかと思い、腹立たしくなったり微笑したりするものだが、この二つの作にも多分にそれと同じ感懐を感じる。考えというものは文章のスタイルに現われるというよりも、むしろ考える前に、そのようなスタイルをとらねばいられぬ肉体が作者の中に潜んでいて、ときにはその特別の生物のごときものが考えをスタイルとして押し出していくことが多い。この作者さえ識らずして自分の中に潜ませていた生物は、多くは時代というものだ。今からこの「寝園」と「機械」を振り返ってみると、私の肉体の中に現われていた時代がよく分かるように思われる。今は私はこのようなものを寸断したく思うが、当時にはこれが生きていたのだからやむを得ない。しかし、生きていたものはたとえ良かろうと悪かろうと、今ではもう出来ないことだけは事実である。

 これはそのまま横光氏の遺言とも見られるような言葉である。昭和十四年という時点においてたまたま発せられた感慨ではあるが、作家としての横光氏の昭和十年代についての証言とも聞きなされてくるような一節である。自らの「肉体の中に現われていた時代」というものを横光君は信じたのである。「旅愁」を書き続けたのもひとえにこの「良かろうと悪かろうと」の思いからではなかったろうか。そして、それだけに敗戦を迎えた横光氏の悲しみは深かったのである。それは戦後に横光氏がはなはだしいまでの批判を浴びたことなどとは別個のことである。~中略~

  こういう時ふと自分のことを思うと、他人を見てどんなに感動しているときであろうとも、直ちに私は悲しみに襲われる。文士に憑きもののこの悲しさは、どんな山中にいようとも、どれほど人から物を貰おうとも、慰められることはさらにない。さみしさ、まさり来るばかりでただ日を送っているのみだ。何だか私には突き刺さっているものがある。

 日本が降伏して間もない昭和二十年の九月某日、東北の鎌倉時代さながらという一農村に疎開していた、横光氏の胸懐である(「夜の靴」所収)。このような考えによって、横光氏はかなしさを噛み、かなしさを支え、かなしさを通ろうとした。そしてそのかなしさを通ったことで横光氏は逝った。昭和二十二年十二月三十日、数え年の五十歳であった。古くから横光氏に兄事していた石塚友二氏はその死を、
    
    人生五十年一日(ひとひ)余ししかなしさよ

 と詠んだ。そのかなしさは今もなお私にある。』

横光が亡くなったことにより、川端の心の裡にしんと静かな悲しみが雪のように降り積もっているを感じますね。

遺稿「微笑」 「微笑」は遺稿である。横光氏は、この最後の作品の「微笑」にも数学を取り入れたように、構想の計算や製図に努めたが、東洋風の象徴とも見られるような飛躍が一方からそれに独断を交えて、この二つが必ずしも充分協和せぬ折りふしもあった。「微笑」には、しかし、俳句も挿入されていてなつかしい。横光氏は俳句がずいぶん慰めになっていたようである。晩年の文には一種の俳文を思わせるものがある。~中略~
 私はこれまで横光氏について書く場合もできるだけその言葉をのこすように努めてきた。この解説はそれらをつづり合わせ、編み直した体裁ではあるが、またある程度の手入れをもほどこしておいた。終りに「横光利一弔辞」を載せる。この弔辞は私の集にのっているが、重ねてここに収める。』

川端が横光に送った弔辞ですが、全文掲載する訳にはいかないので、途中、中略を差し挟みますこと、どうぞご容赦下さい。

『      

横光利一弔辞

 横光君

 ここに君とも、まことに君とも、生と死とに別れる時に遭(あ)った。君を敬慕し哀惜する人々は、君のなきがらを前にして、僕に長生きさせよと言う。これも君が情愛の声と僕の骨に沁みる。国破れてこのかた一入(ひとしお)木枯(こがらし)にさらされる僕の骨は、君という支えさえ奪われて、寒天に砕けるようである。
 君の骨もまた国破れて砕けたものである。このたびの戦争が、殊に敗亡が、いかに君の心身を痛め傷つけたか。僕等は無言のうちに新たな同情を通わせ合い、再び行路を見まもり合っていたが、君は東方の象徴の星のように卒(にわか)に光焰(こうえん)を発して落ちた。君は日本人として剛直であり、素樸(そぼく)であり、誠実であったからだ。君は正立し、予言し、信仰しようとしたからだ。
 君の名に傍(そ)えて僕の名の呼ばれる習わしも、かえりみればすでに二十五年を越えた。君の作家生涯のほとんど最初から最後まで続いた。その年月、君は常に僕の心の無二の友人であったばかりでなく、菊池さんと共に僕の二人の恩人であった。恩人としての顔を君は見せたためしは無かったが、喜びにつけ悲しみにつけ、君の徳が僕を霑(うるお)すのをひそかに僕は感じた。その恩頼は君の死によって絶えるものではない。僕は君を愛戴(あいたい)する人々の心にとまり、後の人々も君の文学につれて僕を伝えてくれることは最早疑いなく、僕は君と生きた縁を幸とする。生きている僕は所詮君の死をまことには知りがたいが、君の文学は永く生き、それに随(したが)って僕の亡びぬ時もやがて来るであろうか。~中略~
 君に遺された僕のさびしさは君が知ってくれるであろう。君と最後に会った時、生死の境にたゆとうような君の目差の無限のなつかしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあえるであろうか。さびしさの分る齢を迎えたころ、最もさびしい事は来るものとみえる。年来の友人の次々と去りゆくにつれて僕の生も消えてゆくのをどうとも出来ないとは、なんという事なのであろうか。また今日、文学の真中の柱ともいうべき君を、この国の天寒く年暮るる波濤(はとう)のなかに仆(たお)す我等の傷手(いたで)は大きいが、ただもう知友の愛の集まりを柩とした君の霊に、雨過ぎて洗える如き山の姿を祈って、僕の弔辞とするほかはないであろうか。
 
 横光君
 僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく。幸い君の遺族に後の憂えはない。
 昭和二十三年一月三日』

川端康成が横光利一を語る5へ続く/a>

「川端康成が横光利一を語る4」への1件のフィードバック

  1. 川端康成の横光利一への『弔辞』の原文と思われる手書きの文章を大阪府・茨木市役所の『川端康成文學館』から頂いた文章を読んでみて、書き直されて、発表されたようです。
    その書き直されたものは、当時の文学会の状況を配慮して、表現を控え、改めたのではないかと思われます。どうか、検証してみてください。

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