川端康成が横光利一を語る5

川端康成が横光利一を語る4の続きとなります。今回から、回ごとに本を代えての紹介となります。筑摩書房が出版した「現代日本文学全集65 横光利一集」から『』内の文章は左記の本から引用した上、手前勝手な現代語訳をしたものになります。旧漢字は全て新漢字にて掲載しておりますこと、ご了承ください。川端康成と横光利一の研究の一助になれば幸いです。

筑摩書房から出版された横光利一集には、川端康成における「横光利一」というタイトルによる解説が掲載されています。横光の弔辞から始まるこの文章は、どちらかと言えば二人の思い出を綴った内容となっています。
弔辞につきましては、前回を参照していただけたらと思います。

『一

 横光利一君は昭和二十二年十二月三十日午後四時十三分に死んだ。
 その時刻に私は萩須高徳氏の画室で絵を見ていた。フランスの田園風景を二枚並べて見ていた。二枚とも空が大きく雲の多い絵であった。雲は私を遠い思いに誘った。その雲を頭に残して鎌倉に帰ると、横光君の死を聞いた。
 雲の絵を見ている時横光君が死んだことになるので、私は萩須氏から二枚の絵を借りて、その後自分の家で眺めていた。雲によって私は横光君に出会うようにも感じた。

 二

 私の近作「しぐれ」に、手のデッサンの夢を見、覚めるとそれがデューラーのデッサンだったと分り、デューラーの画集を見て、その手のデッサンから友人の手を思い出すところがある。
 その友人は横光君ではないかと言う人があった。私は驚いた。「しぐれ」の友人は架空の人物である。心理も行為も横光君とはまったく縁がない。横光君はこの友人のように病的ではない。
 しかし、夢さめて画集を見た時、デューラーのデッサンの手から横光君の手をいくらか思い出したことだけは事実であった。~中略~

 三

 この文章を書き出した時、私の机の上にはロダンの手があった。~中略~ブロンズの小さい手で、文鎮には大き過ぎるがならぬこともない。~中略~
 女の左手である。~中略~女の手であるのに、このロダンの手から私はやはり横光君の手を思い出した。~中略~

 四

 デューラーやロダンの手からなぜ横光君の手を思い出したのか、今私にはよくわからない。~中略~
 おぼろげな記憶だが、横光君の手は均整のいい形ではなかった。円みのある姿ではなかった。指は細長い方だったと思うが、すんなりと伸びてはいなかった。少し節立って、いくらか曲っていた。美しい精神的な手であった。涼しい愛情の手であった。
 いつか触れた時横光君の手が冷たかったのを私は覚えている。人の手は時によって冷たかったり温かかったりするものだから、私のそんな記憶で横光君の手が冷たいとは言えない。とにかくしかし横光君の手の冷たい感触が私に残っている。
 また私は横光君が死ぬ幾日か前の手を覚えている。胃の出血後少し持ち直した時だったが、ひどく衰えて寝ていた横光君は、まだ頭が十分はっきりしないために、手で思考と表現とを助けようとするかのようであった。手をそう動かすわけではないが、表情的に見えた。勿論青白く細った指であった。』

 五

 手のデッサンにしろ、手の彫刻にしろ、人体の小部分の手を切り話したものだけになお象徴的である。手は顔ほど意味が明らかでないから顔よりも象徴的である。人体のうちで手は顔についで表情のある部分だが、私達は手に個性、個人別を見分けることは一向馴れていない。
 それでデューラーのデッサンからも、ロダンの彫刻からも、横光君の手を思い出すというおかしな話になるのかもしれない。~中略~

 六

横光君は二十歳から二十五歳の出発のころ、「私は何よりも芸術の象徴を重んじ」と自ら言っている。
 そうしてまた四十歳を過ぎてからは、「私も年とともに再び象徴を重んじた初期の風懐に戻って来たのを感じる。」~中略~
 二十の象徴と四十過ぎの象徴とでは、それを言う横光君自らの考えにも移り変わりはあったろう。初期の象徴的な短篇として、横光君は「蝿」、「御身」、「碑文」、「日輪」などを数え、後期の象徴的短篇として、「秋」、「睡蓮」、「シルクハット」などを数えている。初期では、「私は何よりも芸術の象徴性を重んじ、写実よりもむしろはるかに構図の象徴性に美があると信じていた。いわば文学を彫刻と等しい芸術と空想したロマンチシズムの開花期であった。」後期では、外面の視覚的な構図よりも内面の倫理的な構図の象徴性を志したようである。初期を彫刻的とすると、後期はあるいは幾分音楽的と言えるのかもしれない。
 横光君はまたこうも言っている。「常に現実の様相を追い回すことのみに専念する謀みからは、所詮、美も道徳も生まれる筈なく、智もまた自己の目的を知らずに腐り果てることを思えば、文学する者は、おのれの持った主題を含む題材の意味とともに常にそのときどきに死に、天に昇る象徴の使命を果たし、再び地上に下る困苦を繰り返すべきかと思うことは、私にはようやく自分の行くべき道のように見えて来た。」
 これらの言葉は河出書房版「三代名作全集」中の「横光利一集」に「解説に代えて」書かれたものである。
 
 七

 三代名作集は昭和十六年、開戦の年の出版だが、横光君は昭和二十年、終戦の年の日記「夜の靴」にも次のように書いている。~中略~
 
 「愁いつつ丘をのぼれば花茨(蕪村)

 と誰も口ずさむのは理由がある。この句は人と共に滅ぶものだ。耕し、愛し、眠り、食らうものらと共に滅んでゆくものでは、まだ美しさ以外のものではない。人の姿などかき消えた世界で、次に来るものは異様な光を放って謎を示す爪跡のような象徴を、がんと一つ残すもの。それはまだまだ日本には出ていない。人のいた限り、古代文字というものはどこかに少しはあったにちがいなかろうが。」~中略~
 このような詩の象徴が常に横光君のうちを流れていたことも疑えない。輪つぃは象徴という言葉のついでに引用しておきたい誘惑を感じた。
 横光君がこうまで芸術至上の嘆声をもらす時は稀で、論理的な試考が不断に強かったのである。』

川端康成が横光利一を語る6へ続く

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