川端康成が横光利一を語る6

川端康成が横光利一を語る5の続きとなります。今回は、河出書房新社から出版された「文芸読本 横光利一」より『』内の文章は全て左記の本からの手前勝手な現代語訳をした上での引用となります。この本は、多くの文人が横光利一に寄せた文を集め、間に横光自身の書簡や随筆、俳句に加え写真が掲載されている本です。横光利一から川端康成へ宛の手紙も二通掲載されています。

河出書房新社「文芸読本 横光利一」に掲載されている川端康成の文章には、筑摩書房が出版した「横光利一集」と同じタイトル「横光利一」で執筆がされています。
ですが、筑摩書房は1950年3月に書かれたものですが、河出書房新社の方は1940年2月に作成され、また内容が全く違うのが特徴です。横光は昭和22年(1947年)に亡くなったため、この本に収載されている川端の記事は横光が存命だった時代に書かれたものとなります。

横光利一  川端康成

 横光君には自伝風な作品が少ない。また、自分を語ることはつつしんでいるようだ。従って、その出生や幼少時代のさまは余り知られていない。「横光氏の生立ち断片」という車谷弘君の記録が、それを伝えて、恐らく唯一のものであろうか。これは車谷君が横光君から親しく聞いて書いたという。横光君は常に問題の作家であるだけに、彼に関する論評も実に多いが、そのなかで、車谷君の文章は格別なつかしく思われる。今度横光君の作品が本全集(新日本文学全集)の一冊として出るにつけても、読者に紹介したいのは、この「横光氏の生立ち断片」である。ここに少し抜書きすることを、車谷君にゆるしてもらおう。
 横光君の本籍は大分県宇佐郡長峰村、明治三十一年三月十七日の出生、火山の爆発と同時に生まれたそうだが、その土地がどこかは知らないという。横光君の父上は、鉄道技師だったので、任地が度々かわり、小学校だけでも八度転校したそうである。初めて入ったのは、大津市の大津小学校だが、幼いころの古里という印象の深いのは、伊賀の柘植(つげ)である。ここは横光君の母上の生れた町でもある。
 私(川端)も横光君から柘植の話をよく聞いた。
 横光君の最初の記憶は、蜂に足を刺されたことと、兎の耳のなかの美しさに見とれたことの二つだという。後年父母に話しても、一家が福島に住んでいたころには、確かに蜜蜂や兎を飼っていたけれど、それはまだ横光君が二つか三つの時のことだから、覚えているはずないと言われたそうである。「やっと二三歳の横光さんが、兎の耳の中をじっと見つめて、その赤らんだ美しさにうっとりされたのを想像すると、横光さんの眼の美しさは、涼しく一生を貫いている感じで……」と、車谷君は書いている。五歳の時には呉の町にいた。この町の便所は一丈も深い。横光君はこれに落ちた。父上に襟首をつかまれ、そのまま海のなかでじゃぶじゃぶ洗われた。「その時、小さな魚が、貝の中から出たり入ったりしていた小底の美しさを、はっきり憶えているという。」
 九歳の時には、従兄が住職をしていた寺へしばらく預けられた。この山寺の鐘を毎朝つくのが、小さい横光君の役目だった。雑巾がめもした。ある時、本堂の金の大仏にまで雑巾をかけてしまった。この大仏は後年国宝になった。
 中学は伊賀の上野中学である。中学生の横光君は弱々しい文学少年ではなく、スポーツの選手という一面があったことは、私(川端)も時々横光君から聞いた。
 横光君の父上は測量技師で、「鉄道の神様」と言われていた。勘のいい人で、トンネル工事の入札は名人だった。
 山をじっと見ていると、工事の見積りが立つという風だった。その生涯で最も華かだった時代は、生野で銀山をあてた時である。幾度か浮き沈みの一生であった。金銭には淡泊で、人に言われるままに貸し与え、証文は破いた。京城で死んだ。行年五十四。
 車谷君の記録は大体右のようだが、これだけの断片も横光君を知る助けとなろう。横光君が「後年父上の展墓に帰った時、本籍地の人々が、横光さんを亡父にそっくりだと言ったそうだ。」横光君はこの父上の血を受けているところが多いだろう。父上が亡くなって、朝鮮へ行った時のことを、横光君は「青い石を拾ってから」という短篇に書いていたと思う。そのころ横光君はもう新進作家で、私達とも交友があった。横光君が二十四歳、私が二十三歳の時、二人は菊池寛氏の中富坂の家で初めて紹介されたのである。父上の晩年は不遇で、横光君もずいぶん窮迫していた。横光君の中野の家で母上は亡くなった。
 二十年近い私の作家生活は、横光君なしには考えられぬほどで、その信義に厚い友情についてはここに書きつくせない。私は横光君の作品の最もよき理解者とは言えないかもしれぬが、古い友人の作品には、先ず第一に作者の美しい人柄を感じるのも自然であろう。この集の三作を今読み返してみてもやはりそうである。~後略~』

このように川端康成は著述していますが、現在では横光利一は福島県の東山温泉の新滝旅館の一室で誕生した説が正しいとされています。また、火山が爆発した訳ではなく、この日は九州の太宰府へ左遷された菅原道真の命日であったため、横光の母は「この子は天神様の命日に生まれた子だから運が強い。」と言って育てたそうです。
それに加え、横光の母は松尾芭蕉の後裔で、伊賀の松尾氏の血を引いた方でした。横光利一は元禄時代の俳人の血を引いた文豪で、血筋の点で言えばこれほど文士として生まれるべくして誕生した文豪はいないと言われていたそうです。
横光の父である、梅次郎の実家は大分県宇佐郡長峰村大字赤尾で、代々藩の技術部門を担っていた名家の出でした。横光曰く、父は「青年時代に福沢諭吉の教えを受け、欧州主義を通して来た人物だった。ただひたすらに欧米に負けたくない諭吉の訓育のままに、西洋も知らず、山間にトンネルを穿つことに従事し、山嶽を貫くトンネルから文化が生じて来るものだと確信した。」(「旅愁」より)
その父も、大正11年9月に亡くなり、横光は無一文になり失意のどん底にいました。その翌年、関東大震災を経験し、更に次の年、大正13年に「文芸時代」の創刊において「新感覚派」として認められ、活躍し始めますが大正14年1月27日に母小菊が亡くなります。
この時の横光については、中山義秀の回想によると「君のお母ァさんは、亡くなったそうだね。おれは貧乏になったから、香典は出さないよ。」と言ったところ横光は「そんなことに気をつかってくれんでもよい。お袋はおやじの死んだ三年目に、おやじの側に行ったのだから、それはそれで本望だったわけさ。」と答え平然としていたそうです。
ですが、大正15年6月24日に横光は最初の妻を亡くすことになります。そして、翌年の昭和2年に千代子夫人と菊池寛の媒酌により結婚しました。横光の激動の数年は大正の終りと共に、幕を下ろしたようですね。

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