横光利一の書簡と随筆集2

河出書房新社から出版された「文芸読本 横光利一」より『』内の文章は全て左記の本からの手前勝手な現代語訳をした上での引用となります。この本は、多くの文人が横光利一に寄せた文を集め、間に横光自身の書簡や随筆、写真が掲載されている本です。今回、書簡では川端康成と二番目の奥様である千代子夫人宛のお手紙などを紹介しています。

『佐藤一英宛
 大正九年七月二日

 手紙ありがとう。昨日から試験になった。
 十日間もあるのだから困る。君の下宿の方はかたをつけておいた。そんなにあわてて上京しなくても落ちついていたってもいいように思う。無論、上京出来れば結構だが。しかし、そう早く田舎者になるきづかいもなかろう。せいぜい柔いけんかですますよう。君はたっしゃか。俺は二三日やられて寝たがもう起きた。寝ている時は凡てのものが、青くていきいきしているようにみえたが、起きるとそうでもないのだ、やっぱり宿場の馬みたいに、いつくるやら分からない物をぼんやりと待って退屈しとる。空には風があるとみえる。栗と桐と欅の梢が揺れている。こんな真昼に黙って一人誰かが死んでいはせぬか、ほったらかされて。』

大正9年(1920年)、横光利一はこの時、22歳でこの年の1月に作品「宝」を「サンエス」に発表、9月には現在の文京区の初音町11の初音館に下宿していました。

『川端康成宛
 大正十三年八月七日

 お手紙拝見。御努力感謝いたし候。こんな所にいるのがすまなく思い候。京都へ下さった手紙拝見仕らず候。残念に候。菊池氏へは京都にいる時委(くわ)しくお報らせいたしおき候。決して悪くはお思いなさるまいと存ぜられ候。貴兄編集責任恭しく存じ候。貴兄反感の矢おもてにお立ちになること甚だ残念に存じ候へども、その時は小生出来得る限りのことはいたすべく候。雑誌発刊の説は雑誌設立理由及び心理を書くことといたそうではございませぬか。その方が片岡氏にも君にもいかがかと存ぜられ候が。
 十月号の小説のこと。目下小生、十月号の「改造」のを一つ書き居り候につき、余り長きものは及ぶこと之れ難からんと存ぜられ候が、十枚ばかし小生の所予算にお入れ下され度く、右お赦し下されば好都合と存じ候。
 喧嘩ばかりいたし居り候て、筆思うようにはかどらず。参り申し候。なるほどあの同人の顔ぶれでは犬養氏も押し出され候はんと微笑いたし候。鈴木彦、加宮、佐々木氏入り候は小生にとりても喜ばしく候。とにかく、片岡、貴兄編集となり候上は、皆もそう遊ぶこと許りは考えずと察せられ候。
 ただ皆々言い出すことに遠慮しているに過ぎず候へば皆々、形、はっきrと定まればいさぎよくお助けすることと存ぜられ候。
 何はともあれ感謝いたし候。早々。      左馬』

大正13年(1924年)における横光は、前年に新感覚派として菊池寛の元で新進作家として地位を確立し、この年は10月に川端らと一緒に「文芸時代」を創刊しました。

『川端康成宛
 大正十四年十一月八日

 ここに新鮮にして、アクビ出る程。
 一句あり、「この秋はキキョウも見えずに寒菊や。」昨夜暴風参り、伊豆からなり。
 「風、伊豆から吹けば、源ヶ島の僧正いかにをはすらんと、岩より見れば、あはれ雲光りて一条の岬、閃々として。」なん口ずさみ候ぞ。東京なる程小生もいやに相成り候。時計も相かけ忘れ、時を見るに陽の光にて、夕どき来れば鯖一本浜より下げまいり鍋に入れ、一日に煙草十本。馬鹿馬鹿しきことのみ書き連れ候はまたと云うこと。』

続く、大正14年は一月に母が亡くなり、また妻の状態も思わしくなかったため、横光は10月に神奈川県葉山森戸へ転居しています。

『千代子夫人宛
 昭和十一年五月二十四日パリより

 手紙を今日書かぬと、四五日、汽車が遅れてしまう。今日は五月二十四日で日曜だ。そうだ、日曜だったんだ。忘れていた。今は午後の五時だから、もう君たちは寝てしまったことであろう。ルクサンブールを歩いて来て、手紙を書きに戻って来たばかりだ。三四日前、一日旅行で、ルーアンという町へ樋口君と行って来た。この町はフローベルのボヴァリー夫人が村から出て来て、愛人と馬車に乗った町だ。
 それから、ジャンヌダルクが火あぶりにされた町である。ノルマンディー地方とて、明るく美しい。一晩とまって帰って来たが、もうマロニエの花は尽く散ってしまった。明日は月曜だから、君から手紙の来る日だ。
 ルーアンへ行く前日、君の洋服とハンドバッグと、手袋と帽子を送らせた。手袋がもし小さければ粉白粉を手にぬって最初はめるが良ろしい。
 帽子が小さければ、帽子にひもをつけ、かぶったときに、頭の後ろのマゲの上の所へひっかけるようにすれば良ろしい。七月の初めか六月の終わりに、横浜の税関から、荷物のついたことを報せるだろうから、何がしの税金を送れば、そちらへ送ることと思う。
 この次の手紙は、ひょっとすると、スペインから出すから遅れる事と思う。二三日ひどく寒く、ルーアンでは慄えた。ひどく暑くワイシャツ一つだったのに、びっくりした。パリへ帰っても寒さがつづいた。
 さっぱりわからぬ。早く日本へ帰りたいばかりだ。早く逢いたいと思う。何をしよう、かにをしようなんて気はなくなった。
 日本へ帰れば、そうでもあるまいけれども、何となく今は、そうだ。
 一週間なんて見る間にたってしまう。
 これでまだ、これからスペインへ行き、イタリアへ行き、ウィーン、ドイツと廻るのかと思うと、何だか忙しいが、まだ六、七、八月とあるのだから、思えば長くもある。
 セザンヌの展覧会がある。三十年祭の事とて、世界各国からセザンヌの絵が集って来ているとの事で、パリに長くいても、めったに見られぬそうだ。これを明日あたり見るのだ。マチス、ピカソ、皆見た。
 スペインは十日あまりかかるらしい。
 六月の中ごろには、またここへ帰っている筈だ。マドリードから、セビージャ、アンダルシア地方を廻るのだ。ここは夢みたいだそうな。』

昭和11年(1936年)、横光は38歳にしてパリへと旅立ち各国を訪ねます。当時は船旅であったため、2月に福岡県の門司港から出発し帰りは8月でシベリア経由で帰国しました。船中にて、高浜虚子と食事をしたり俳句会に出席し、パリでは友人であった岡本太郎を訪ね、一緒に撮影した写真も残っています。

『千代子夫人宛(ベニスより)
 昭和十一年六月二十五日

 今ベニスの葉書を出したばかりだが、すこし印象を書いておこう。
 橋のところで(絵葉書の)夕食を食べ、ホテルへ帰ったばかりだ。このホテルは、宮殿だと云っても良い。ベルサイユの宮殿の中もよく見たが、これほど美しいとは思わなかったほどだ。ホテルは海に向かっている。ここの街は妙な街で、露地ばかりみたいな街だ。その露地がときどき水なのだ。
 というよりも、つまり入り組んだ露地の大半は水路なのである。家と家との間に舟の通っている幅一間ばかりの深い水路ばかりだから、隣の家へ行くにも、橋を渡って行くのさ。水は濁っているかと思ったら、そうじゃない。青々とした深い水だ。佑典ぐらいな子供が欄干の何にもないその水端で、遊んでいるが、よくほっておけたものだと、不思議な気がする。浅い水ならともかく、底が見えない深さだ。』

横光利一の書簡と随筆集3へ続く

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