伊藤整が横光利一について解説する5

伊藤整が横光利一について解説する4の続きとなります。以下、筑摩書房が出版した「現代日本文学全集65 横光利一集」から『』内の文章は左記の本から引用した上、手前勝手な現代語訳をしたものになります。旧漢字は全て新漢字にて掲載しておりますこと、ご了承ください。横光利一の研究の一助になれば幸いです。解説者と作者、お互いにとってフェアな展開にしようと考えて進めているのですが、なかなか難しいものがありますね。

『ここまで辿られた生命の存在の不安、それが巨視的に描かれたのが「静かなる羅列」である。それはやがて「ナポレオンと田蟲」や「碑文」や「マルクスの審判」における社会的生理的条件の中にとらえられた人間の不安となる。そしてその社会的、民族的な枠にはめ込まれた人間の不安を大がかりに描くものとして「日輪」や「上海」の構想が現われて来たのである。
 前にも述べたように、横光利一が人間の不安を認識した方法が大正期の先輩作家たちと違っていたところは、それを経験として、または経験類似の描出として、または歴史の中に直接に把握せず、抽象的な観念として把握したことである。
 そしてこの抽出した観念を他の仮託的事件の中にはめ込むことが彼の創作方法であって、それは「ナポレオンと田蟲」、「日輪」、「機械」、「時間」等に等しく見られることである。彼が自然主義的文学から脱するために行った戦いは、新感覚派的文体にもあったけれども、より強く、観念を抽出して別な構造の中へ移転することにあったと私は考えている。しかし観念という論理的なものを、印象飛躍法の模様化的文体によってとらえることが無理であったところに、「上海」までの書き方の空転があった。その間僅かに「春は馬車に乗って」の経験と自然感情(抽象以前のもの)との混合による成功があった。
 「機械」の出現は、彼がその論理的な観念を託するに足る論理的な描写の可能なる文体に遭遇したことを意味している。それでは、この作品で彼が行った観念の定着とはどのようなものであったか。それは彼が初期から持っていたところの存在の不安定性の日常生活的な図式化であった。
 即ち自然主義系統の文学では、人間の人格的安定を常に目標にして、それに接近する戦い、それの崩れる戦いを、人間性の中にある悪徳や社会を固定したものと見てそれに対する意志薄弱による失敗や、自己の欲望の抑制による心境安定等を描いた。それは個人の道徳的努力や諦観や現実放棄によって人間は安定し得るものであるという先入観によって書かれていた。即ち個人主義思想による安定感の追求が、明治大正期文学の実体であった。これは、中世紀からの解放期にのみ役立った意識であって、新しい資本主義社会では通用しないものなのである。
 「機械」に定着された人間社会観は、人間の実在は、他の人間との出逢いによって、その価値や力が絶えず変わるものであり、またある事件が甲なる存在に与える影響と乙なる存在に与える影響とが違ったものとなる可能性があること、また努力がかえって人間を駄目にすることがあり、失敗がかえって実益を多くもたらすこともあるという考え方である。人と人、人と仕事、人と人との組み合わせの動きによって、善意や努力と関係なく、人間は浮かび上がり、また破滅する。そういう人間の組み合わせと社会条件の組み合わせの中に、現代人の生きることの実体がある、という考え方である。
 この考え方、生命はそれの外にある条件の必然の動きによって意志や努力と関係なく栄え、かつほろびるという考えは「蝿」に顕われたものの連続であり、その展開である。そしてこの展開した部分において、私は彼が、社会機構に左右されるがままになる運命を人間が持っていると見た点でマルクス主義の影響下にあると考える。また人間が、一定の職業や立場や思想を持続する間は同一の人格的存在を持続するという日本の自然主義の人間観が、ここで崩されたことは最も注目に値する。「機械」の主人公の勤めている工場に、ある一人の人間が入って来ると、それまでその工場にあった人間関係の比重はすっかり変わって行く。ちょっとした仕事の上の工夫が出来るとたちまちの間にまたこの一群の人間の間の力の構造が変わる。これは現代社会における人間存在の実質を彼が把握したことを示している。人格を中心として徳と不徳とによって陰翳づけられて描かれた十九世紀的方法はここに終わったのである。徳にも不徳にも意志にも安定した生活がなく、組み合わされた人間のあいだの力関係によって人間の実体が絶えず変化して行くのである。
 横光が「機械」で使った描出方法に対して、私は弁証法的な書き方という名をつけても不当ではない、と考えている。一つの存在、それに対立して現われる別の存在、その二つの間に生まれる力の関係バランス、更に別な存在や事件が加わることで、バランスの実体が変わって行く。
 即ち人格を中心とする永続的実在の否定である。そしてこの点において「機械」という現象は心理主義的であるよりも弁証法的であり、または心理主義であることにおいて弁証法的である。
 人間関係の実在は道徳と人格を押しつぶすというこの考え方は、極めてニヒリスティックである。この作品における認識は、正に当代の日本の社会の人間の実体に肉迫したものであった。そして何等かの新しい道徳を設定しない限りこの認識の不安は耐えがたいものなのである。』

伊藤整が横光利一について解説する6へ続く

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