宇野浩二が語る織田作之助2

宇野浩二が語る織田作之助1の続きです。筑摩書房が出版した「現代日本文学全集81 永井龍男 井上友一郎 織田作之助 井上靖 集」に掲載されている、宇野浩二が織田作之助に寄せた解説「哀傷と孤独の文学 織田作之助の作品」は、織田作之助の人生と作品に対する深い愛情が差し伸べられた解説です。ここでは、左記の解説を現代語訳した上で、全文掲載しております。今回は、宇野浩二が織田作之助に会ったときの思い出も書かれています。

この、「空襲がもっとも激しかった頃」に、書いた、二つの小説のなかで、『表彰』は短篇であるけれど、『アド・バルーン』は、かなり長いもので、昭和二十年三月、「大阪が焼けた直後、大阪惜愛の意味で、空襲警報下に、こつこつと書いた」と織田は述べているが、それにもかかわらず、この小説は、(これも、作者が、はじめから、『アド・バルーン』というものを、あたまにおいて、作ったらしいことが、よくわかり、いかにも、おもしろい、小説らしい、小説であり、物語であるけれど)ひとりの、どこに行っても、いかなる人にあっても、むかえられない、やはり、孤独な、人間の半生の物語であるが、そうして、やはり、織田の小説に共通する、『めでたしめでたし』でおわってはいるけれど、最後の、主人公の、縁のうすかったような濃かったような、父の遺骨をもって、それを納めるために、高野山に行って、「茶店を出ると、蝉の声を聴きながら私はケーブルの乗場へ歩いて行ったが、ちょこちょこと随いて来る父の老妻のしわくちゃの顔を見ながら、ふとこの婆さんに孝行してやろうと思った。そして、気がつくと、私は『今日も空には軽気球(アドバルーン)……』とぼそぼそ口ずさんでいました。」というところなども、主人公も、作者も、いかにも、のんきらしくは見えるけれど、やはり、流転の波に、たえず、しじゅう、ただよい、ながされている、ながされていた、ようにおもわれる、織田の、物事を逆にいわねばならない、やるせない、孤独な、たましいが、この軽薄さえも見える、物語のいたるところに、ただよいながれている。
私は、去年(昭和二十一年)の秋ごろであったか、織田に出した手紙のなかに「あなたの小説は、すらすらと、読め、よみながら、せかせかと追いたてられるような気のするところはあるけれど、読みだしたら、むちゅうで、しまいまで、読みとおしてしまう、が、読んでしまってから、いつも、たいてい、巧みな嘘をつかれた、というような気がする、小説に、いわゆる実際世界にない『嘘』を書くのは、私も、さんせいであり、私も、たいてい、そのとおりであるけれど、読んでしまってから『嘘』とおもわれるような作品には、私は絶対に、さんせいできない、どうぞ、これから、読んでしまってから、『真実』とおもわれるような作品を、書いてほしい、そういう小説ができたら、私は、あたまをさげる」という意味のことを、書いたことがある。
私は、織田には、二度しか、逢ったことがない。しかし、二度とも、織田に逢って、私がうけた印象は、逢うと、すぐ、顔じゅうが笑い顔になるような笑い方をするけれど、その笑い顔のなかにも、『寂しい』ところがあり、ぜんたいに、作品のうわべに見えるような、『かるい』ところも、ときとしては、『人もなげに見えるような』ところも、『しゃれのめすように』おもわれるところも、そういうところは、ほとんど、なかった。それどころか、誇張していうと、世に、たよりない、たよりてのない『孤児』のような感じさえ、あることがあった。そうして、その『孤児』のような感じのなかに、なんともいえぬ、人なつかしく見えて、いじらく思われ、したしみが感じられるところと、じぶんは、ひとりだ、だれにもかまってもらいたくない、とおもわれるような、はたから、手のつけようのない人のように感じられるところがあった。
織田の、みじかい一生のうちの、晩年の、すぐれた作品の一つである。『世相』のなかに、こういうところがある。

……自身放浪的な境遇に育ってきた私は、処女作の昔より、放浪のただ一色であらゆる作品を塗りつぶして来たが、思えば私にとっては人生とは流転であり、淀の水車のくりかえす如くくり返される哀しさを人間の相(すがた)と見て、その相をくりかえしくりかえし書き続けて来た私もまた淀の水車の哀しさだった。流れ流れて仮寝の宿に転がる姿を書く時だけが、私の文章の生き生きする瞬間であり、体系や思想をもたぬ自分の感受性を、唯一所に沈潜することによって傷つくことから守ろうとする走馬燈のような時の場所のめまぐるしい変化だけが、阿呆の一つ覚えの覘(ねら)いであった。……

この一節は、織田が三十四歳の年の述懐と見てよい。三十四歳のわかさで、「人生とは流転であり、淀の水車のくりかえす如くくり返さえる哀しさを人間の相(すがた)」と見た織田は、その翌年(昭和二十二年)の一月十日に、この世を去ったのであった。
織田は、じぶんの、ほとんど、全作品のなかで、『流転』(あるいは『放浪』)する人間を書いているけれど、織田じしんは、実際は、『流転』どころか、『放浪』どころか、その生涯を、大阪と、京都と、そのちかくで、ほとんど、そのへんを、はなれたことがなく、住みついていた。しかし、『流転』あるいは、『放浪』のせつない思いは、ふだんに、織田の心のなかに、あった。そのことを、織田は、「執拗なまでに流転の生涯を書いたのは、私の童話への憧れであり、人間への愛情の反芻作用であった。」と述べている。

宇野浩二が語る織田作之助3へ続く

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