宇野浩二が語る織田作之助5

宇野浩二が語る織田作之助4の続きです。筑摩書房が出版した「現代日本文学全集81 永井龍男 井上友一郎 織田作之助 井上靖 集」に掲載されている、宇野浩二が織田作之助に寄せた解説「哀傷と孤独の文学 織田作之助の作品」は、織田作之助の人生と作品に対する深い愛情が差し伸べられた解説です。ここでは、左記の解説を現代語訳した上で、全文掲載しております。今回で、この語りも最後になります。おつき合い下さった方々、ありがとうございました!

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永井荷風の、『あめりか物語』のうちの、『秋のちまた』という文章のなかに、荷風が、フランスに行って、悲しい、淋しい、秋のある日、せまい部屋のなかで、「机の上のともし火は、いかほど芯をひねり出しても、妙にうす暗く見える」ような晩が、バルコニーにしたたる雨の音に聞きいりながら、「思わずともの事ばかりを思い」かえしながら、

こういう晩である。ーバルコニーにしたたる雨の音が、わけもなく人の心を泣かせるのは!ヴェルレーヌの詩に、

Il pleure dans mon cocur
Comme il pleure sur la ville,
Quelle cette langueur
Qui penetre mon cocur?
(以下の詩ははぶく)

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『都に雨のそそぐが如く、わが心にも涙の雨が降る。いかなれば、かかる悲しみの、わが心のうちに進み入りし。地にひびき、屋根にひびく、ああ、しめやかなる雨の音よ、雨のしらべよ。しかし、わが心は、なにがために憂うるとも知らず、ただ訳もなくうるおう。わけもなく悲しむ悲しみこそ、悲しみの極みというのであろう。憎むでもなく、愛するでもなくて、わが心には無量の悲しみがやどる……』というような意味がうたってある。
私は、二十歳の青年のころ、荷風の、『あめりか物語』のなかでも、ことに、この文章のうちの、このあたりを、愛読し、愛唱して、いつとなく、右のヴェルレーヌの詩のはじめのほうを、かってに、『都に雨のふるごとく、わが心にも雨がふる。いかなれば、……』と、じぶんで、かえてしまって、ときどき、しばしば、愛唱したものであった。
いま、私は、織田の、『世相』のなかの、さきに引いたところを、よみかえして、はからず、荷風のむかしの文章のなかの、右にひいたところを、おもい出した。
もとより、さきに引いた、織田の文章と、荷風の文章とは、書かれていることも、おもむきも、まったく、ちがう。しかし、ヴェルレーヌの詩のなかの、『わけもなく悲しむ悲しみ』は、織田は、ときどき、しばしば、あじわったであろう、とおもう。
雨のふる日に、ほとんど骨ばかりになった、やぶれた、蛇の目傘をさし、小意気に、高下駄をはいて、ルンペンたちのいる、ガードの下の、あき地まで、あるいていく、『十銭芸者』は、(おそらく、織田が、空想で、こしらえたものであろう、が)織田の、みずから、放蕩無頼の風俗作家(と、これも、逆説のつもりで)と自称した織田の、「心に降る苛立たしい雨」をふせぎ、「わけもなく悲しむ悲しみ」をなぐさめる、『郷愁』であり、『童話』のなかの人物であろう。
私は、さきに引いた織田の文章のなかの、「放蕩無頼の風俗作家のうらぶれた心に降る苛立たしい雨を防いでくれるのは、もはや想像の十銭芸者の破れた蛇の目傘であった。……」というところ、なんど目かで、よみかえしたとき、おもわず、目がしらの痛くなるのを感じた。それは、『十銭芸者』を空想し、その十銭芸者を、「たまたま懐の景気が良い時」に、まねいて、まずしい饗宴をするルンペンたちの姿を、あたまのなかに、えがく、織田の、孤独な、やるせない、時には、じぶんで知りながら、無茶な事をしたくなる、心が、しのばれたからである。
私は、織田には、二年ほどあいだをおいて、二度しか、それも、二三時間くらいしか、あわなかったけれど、二度とも、私には、わらうと、顔じゅうに皺をよせるような笑いかたをした、その織田の笑い方も、話しだすと、そのはなしが、長くても、みじかくても、しまいまで立てつづけに話した、その織田の話し方も、はなしながら、しじゅう、からだをゆする癖のある、その織田のからだをゆする癖も、名作『六白金星』のなかに、「市電で心斎橋まで行き、アオキ洋服店でジャンパーを買い」というところがあるが、その織田ごのみらしい。ジャンパーをきて、去年(昭和二十一年)の秋のすえのある日の晩、私が、上京すると、いつも、とまっている、森川町の、下宿屋のような宿屋の部屋に、その、よくにあう、ジャンパーをきた織田の姿も、(織田がなくなってからの殊更の感想でなく)やはり、どこか、さびしそうに、ものがなしそうに、たよりどころのない人のように、見えた。
そのとき、織田は、東京にすんでいる、したしい友だちと一しょに、たずねて来たのであるが、織田が、「これから築地の宿にかえります」といいながら、玄関で靴をはき、私が、みおくりながら、「その外套ではもうさむくはないですか」というと、「ええ、しかし、きてきたままだすよってに……」と、からだをゆすりながら、例のさびしく見える笑い方をしたが、その横に友だちが立っていたのにもかかわらず、私のほうをむいて、おじきをした、織田のジャンパーをきた姿は、くらい玄関のタタキの隅であったから、というだけでなく、やはり、『ひとり』という感じと、それからくる、『さびしい人』という感じが、私の心をうち、私の目をうるませた。
そういう姿の織田が、私のとまっている宿屋のまえの、ほそい道を、くらい中を、あるいていく姿を、見おくったのが、私が織田を見た、最後になったのである。
そのときの織田のうしろ姿を心の目にうかべながら、心の目に涙をうかべながら、織田の人と文学を回想すると、私は、やはり、結局、織田は、ほとんど、一生、哀傷と孤独のなかに、生き、しぜん、その大部分は、哀傷と孤独の文学(織田の言葉をかりると、哀傷と孤独の物語〈ロマン〉)を、書きつづけた、と、私は、かんがえるのである。この文章に、『哀傷と孤独の文学』というものものしい題をつけたのも、ひとつは、そのためである。
しかし、いま、ふと、かんがえたのは、この題でなく、いっそ、ものものしい題にするのなら、『哀傷と孤独と流離の文学』という題にして、織田のほとんど全作品のなかにただよっていた、流離と放浪の、『すがた』と『おもい』を、織田が心をひそめたように、私も、もうすこし力をこめて、書けば、とおもい、書きたくなったのであるが、いろいろな事情で、それらの事は、別のときに、述べることにして、残念ではあるけれど、はぶくことにする。
なお、流離といい、放浪といえば、織田は偶然に、とおい旅さきで、織田その人も、世の人びとも、永眠したが、それをおもえば、そういう理屈などはまったく別にして、ふるい、つかいふるされた、言葉ではあるが、やはり、感慨無量である、(というよりほかに、言葉がない、なぜなら、大へん感傷的ではありながら、こう書きながら、目に涙をもよおすからである。)    (昭和二十二年四月)

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