現代から見た織田作之助2

現代から見た織田作之助1の続きになります。小学館が出版した「昭和文学全集13 織田作之助 武田麟太郎 阿部知二 尾崎士郎 火野葦平 中山義秀」には、石崎等氏による「織田作之助・人と作品」という解説が掲載されています。この本が出版された昭和64年(1989年)の視点に基づいての織田作之助の作品に対する考察がなされているため、現代の我々にとっても織田作之助の作品全般から彼の辿った道までがわかりやすく、理解しやすい解説となっております。以下、『』内の文章は左記の解説の引用となります。織田作之助と彼の作品の理解と研究の一助になれば幸いです。

戦時下の動向

織田作之助が自己滅却して書いた歴史小説は、端正な完成度を示しており、今日でも比較的面白く読むことができる。しかし、これは織田文学の本道からはずれていた。『青春の逆説』(昭和十六年)以後、時代の要請で多くの作家達と同様に、しかたがなく歴史物に赴かざるをえなかったからである。『五代友厚』とその続篇『大阪の指導者』、『月照』『異郷』などの書下ろしがその主要なる仕事だが、ここには時代との関係で自己を滅却させたひとつの型が示されている。
戦後に書かれた「世相」の主人公「私」は、『青春の逆説』が発売禁止処分を受けた昭和十六年七月以降のことに触れ、「自分の好きな大阪の庶民の生活や町の風俗が描けなくなったこと」を痛感して憂鬱になるが、やがて江戸時代の戯作者のことを思うと、反逆精神がむらむらと燃え上がり、現代版『好色一代女』というべき「十銭芸者」を書き上げる。この小説は、ありえたかも知れない小説の可能性を追求したというより、西鶴を模した反俗的な色彩の強いもので、時期的には、ちょうど一連の歴史小説の裏面に定位されるべきものである。戦中記における文学精神の健在ぶりを示そうとして仕組まれた「十銭芸者」のアリバイは、しかし「世相」では充分には成功していないのだ。どうして戦後になって織田はそこに拘泥したのか。
たとえば、石川淳は、「散文小史-一名、歴史小説はよせ」(昭和十七年七月『新潮』)を発表して、時局に便乗した安手の歴史小説を厳しく批判しているが、さらにその補説といえる「歴史小説について」(昭和十九年八月『新潮』)では次のように書いている。

 何しろ統整された史観と配給された材料とを取扱う仕事だけあって、話はたわいなく片がつく。これで歴史小説という呼称の、上半分の歴史の儀は滞りなく相済ということになる。そして小説の儀は……これはどうまちがっても小説とは申上げられない。

石川淳が、その頃繁盛を極めていた歴史小説にみたのは、それが「散文の運動」とはおせじにもいえない「窮屈な古典幾何学」や「通俗国史解説」の跋扈にほかならなかった。
こういう批判の正当性は、多少とも昭和十年代後半に大量生産された歴史小説を繙(ひもと)いてみれば、ただちに納得のゆくところである。織田の場合がそうだというのではない。むしろ「統制された史観配給された材料」を料理した手際は実に鮮やかであった、今日けっこう面白く読めるとは、そういうことだ。しかし、石川淳いうところの「散文の運動」は空転しており、「地の文と会話のつながりや、描写と説明との融合や、大胆な省略法、転換法」(「大阪論」)など、伝統的な話術を摂取した初期の頃の独特の文体がすっかり影をひそめてしまっている。
もともと織田作之助の文学には、嫉妬や自尊心に悩む屈折した人間の情念の本流が多く認められ、それがときにうるさく感じられさえするのが特色だった。したがって、大義とか憂国とかの超越的倫理(イデオロギー)に拘束された歴史的人物を描くのに馴染まない。彼は、若い頃から慣れ親しんだ固有の心理や情念を圧し殺し、ストーリー・テラーに徹しようとする。それは、川端康成の批評語とされる「下向きの表情」の持ち味がよい意味で発揮されなくなることであった。しかも、彼は、大義とか憂国とかの心情を書くことにより、自己を昂揚させて満足するには、あまりにも醒めた現実認識をもつ散文作家であった。そう考えると、歴史小説は、身過ぎ世過ぎもさることながら、時局に対するささやかな抵抗としての意味もなくはなかった、といえるだろう。
だとしたら、「世相」の中で、どうしてあんなに「十銭芸者」の存在に固執したのだろうか。われわれは、歴史小説の系譜とは別に「天衣無縫」「勧善懲悪」「聴雨」「木の都」「蛍」「猿飛佐助」という短編秀作の存在を知っている。とくに、生まれた大阪の街の青春回顧をみずみずしく描いた「木の都」や、歴史物の副産物として「蛍」「猿飛佐助」の二編を得たことは何よりの収穫であった。ここには本来の織田作之助が生きており、「散文の運動」のみごとな展開がある。これらの作によって、彼がこころみた長編歴史小説はすべて吹き飛ぶのである。ことに、戦争の押しつまった昭和二十年の二月と三月に発表された「猿飛佐助」には、したたかな戯作精神が息づいており、無頼派作家・織田作之助の面目躍如ぶりが発揮されている。』

終戦は、昭和20年(1945年)の8月で、織田作之助はそれから2年後の1947の1月10日に亡くなります。

現代から見た織田作之助3へ続く

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