現代から見た織田作之助3

現代から見た織田作之助1の続きになります。小学館が出版した「昭和文学全集13 織田作之助 武田麟太郎 阿部知二 尾崎士郎 火野葦平 中山義秀」には、石崎等氏による「織田作之助・人と作品」という解説が掲載されています。この本が出版された昭和64年(1989年)の視点に基づいての織田作之助の作品に対する考察がなされているため、現代の我々にとっても織田作之助の作品全般から彼の辿った道までがわかりやすく、理解しやすい解説となっております。以下、『』内の文章は左記の解説の引用となります。織田作之助と彼の作品の理解と研究の一助になれば幸いです。また、この連載も今回で最後となります。ここまで読んで下さり、誠にありがとうございました!

ロマンへの夢

 敗戦後、自己解放の時代を迎えたとき、織田作之助には、武田泰淳や野間宏における仏教、椎名麟三における実存哲学やキリスト教、埴谷雄高におけるインド・ジャイナ教の雰囲気など、戦後派作家にあった宗教性というか求道性というか、超越的なるものへの関心はまったくなかった。また、大岡昇平のように一兵士として戦場に駆り出され、生死の限界状況をさまようという体験ももちあわせていなかった。もし、これらと拮抗しうるものとしたら、それは、「僕はほら知名や職業の名や数字を夥(おびただ)しく作品の中にばらまくでしょう。これはね、曖昧な思想や信ずるに足りない体系に代るものとして、これだけは信ずるに足る具体性だと思ってやってるんですよ。人物を思想や心理で捉えるかわりに感覚で捉えようとする。左翼思想よりも、腹をへらしている人間のペコペコの感覚の方が信ずるに足るというわけ。」(「世相」)という脱イデオロギーと庶民的な具体性感覚の思想であった。これは、大阪ないしそこに生きる人々に対する愛着に裏打ちされたものであり、また大阪的伝統や西鶴文学につながるものにほかならなかった。あるいは、「自身放浪的な境遇に育って来た私は、処女作の昔より放浪のただ一色であらゆる作品を塗りつぶして来たが、思えば私にとって人生とは流転であり、淀の水車のくりかえす如くくり返される哀しさを人間の相(すがた)と見て、その相をくりかえしくりかえし書き続けて来た私もまた淀の水車の哀しさだった。」(「世相」)という日本的な無常感を対置してみることもできるであろう。しかし織田は、戦後の時代を生きてゆくにあたって、かつて自分の感受性を培い、文学の核を形成していたこれらの人生観だけで乗り切れるとは信じていなかった。
 京都を舞台に若き日の芸術家の肖像を『青春の逆説』でたんねんに彫り刻み、大阪を中心に「魂の放浪」の諸相を徹底的に対象化しはてた(と思われた)とき、織田にとって残された課題とは、自分の文学の可能性の芽が戦争によって無残にも摘み取られてしまったという悔恨もあって、「『赤と黒』は私に小説というものを教えた」という通り、スタンダール流の西洋的なロマンによって現代社会を描くことしかないように思われた。戦後いち早く復活したジャーナリズムの上げ潮に乗った彼は、スタンダールとの運命的な出逢いに触発されたロマンの夢を「夜光虫」「それでも私は行く」「夜の構図」「土曜婦人」などの長編に生かそうと、憑かれたように書きまくる。評論「可能性の文学」は、横光利一の「純粋小説論」を織田なりに消化発展させたもので、「土曜夫人」はその実践であった。しかし、「偶然というものの可能性を追求することによって、世相を泛(うか)び上がらせよう」、「世相が変わらせた多くの日本人」(ともに「土曜夫人」中にあることば)を描こうという野心は、理屈通りには行かず、ストーリーは空転するばかりであった。登場人物にも肉付けがなされず、まったく結末を予想できないまま作者の死によってその世界は閉ざされてしまった。
 織田文学の主人公の特徴は、両親を次々と失い、係累から切り離された孤独な単独者が多いということだ、兄弟姉妹がいても、いわゆる健全な家庭を形成しておらず、皆ばらばらに生きている。そして、まるで人形の首をすげ替えるように出入りのはげしい義父、義母。また、夫婦という最低限二人の家庭を描いても、男女どちらかには必ず過去の異性の影がちらつき、嫉妬に苦しむあまり、家庭はつねに不安定な状況に置かれている。つまり、織田は、真に家庭的なるものの核に遭遇し、それを文学の磁場にすることに疎遠な作家であった。だから、主として孤立した人間の暗い情念を掘り下げ、そのリアリティを現実との函数関係においていろいろと追求することに文学的な生命を賭けてきたのである。宇野浩二のいわゆる「哀傷と孤独」はそのことを言ったものだし、先きに引いた「世相」の流転人生観も彼の文学的本質を自ら言いあてたものである。だが、織田は、ロマンの創造という夢を追いかけ、それに専心するあまり、小説文体の危機について少々無自覚であったようである。
 「小説の面白さとは物語性にある。いいかえれば小説とは嘘の芸術なのだ、が、誤解を招かぬために云って置くが、ここにいう嘘とはリアリティを薄めるための手段ではない」と『西鶴新論』(昭和十七年刊)の中で述べている。反論しようのない定義である。また、一流に反逆して、二流に徹せよ、そこからしか「新しいスタイル」「新しい文学」は生まれてこない、という「二流文楽論」の主張にも異存はない。だが、織田は、そういう「文学の可能性」を性急に追い求めるあまり、戦後に相応しい文体の創始に配慮していたといえるだろうか。こころみに、同世代の戦後派作家である野間宏の「暗い絵」や武田泰淳の「蝮のすえ」を置いてみればそれは明らかであろう。
 そうだとしたら、彼の文学の神髄は、やはり戦後の作品にあっても、「土曜夫人」のような奔放なロマンのこころみではなく、「世相」や「六白金星」や「競馬」などの世界にあったというべきであろう。なぜなら、織田作之助は、大阪と切り離して考えることのできない作家であり、出生地の大阪高津の河童(ガタロ)路地の記憶にたえず回帰してゆくことによって、虚実の間をゆくその濃密な私小説的な文学空間を維持し、発展させてきたからである。

 再評価のきざし

 織田作之助をめぐって、最近いくつかの現象がみられた。そのひとつは、『都市空間のなかの文学』で研究に新領域を拓いた前田愛が、瀬戸内晴美との対談『名作のなかの女たち』の中で「夫婦善哉」を取扱ったのに引き続き、『幻景の街 文学の都市を歩く』(昭和六十一年 、小学館刊)の一章に、大阪の街を描いた代表的作品として「夫婦善哉」を取りあげ、都市空間と文学という新しい視覚から織田文学の再評価をうながしたことである。
 ふたつは、昭和五十九年、カナダのモントリオール大学で戦後文学を講義したフランス文学者の西川長夫が、その一日を割いて「織田作之助と焼跡のジュリアン・ソレルたち」と題して講述したことである(その講義録は、『日本の戦後小説 廃墟の光』として昭和六十三年八月、岩波書店より刊行)。
 都市空間、国際性など-これらは無関係に発生したものだが、この中に織田作之助がすんなり収まるということは、無頼派のイメージからするとやや似つかわしくない。しかし、没後四十年にして、その文学を見直そうとする動きがようやく始まったことを示しているのではないだろうか。』

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