夜明け前と島崎藤村の足取り2

夜明け前と島崎藤村の足取り1の続きになります。ほるぷ出版の「夜明け前四 島崎藤村」に掲載されている三好行雄氏による解説は、「夜明け前」の解説と共に島崎藤村に対する深い研究が光っている内容です。以下、『』内の文章は左記の解説からの引用となります。「夜明け前」及び島崎藤村への理解の一助となれば幸いです。

『「戦争と巴里」では、十九世紀日本の研究を読んでみたいという控えめないいかたをしていた藤村だが、それはやがて他人にまつまでもない、自分自身の課題となる。かれの思索はおのずと問題の核心に踏みこんで、十九世紀という時間の幅で切りとられたひとつの時代を、東と西の異質文明の対立と葛藤をともなった、近代化の過程として見直そうとしたのである。その間のあわただしい流動をつらぬいた民族の伝統、いわば日本人の倫理の源泉と形が問われ、日本の植民地化をふせいだ中世の意味が重視される。同時に、民族の至誠にかかわりつづけた存在として、真淵や宣長らによって推進された復古の学、とくに平田篤胤(あつたね)の思想を軸とする平田派の国学が再評価され、近代の国民意識の胎動を、神ながらの保守のなかに聞こうとする歴史認識も育ちはじめていた。すべてはまだ萌芽ないし予感にすぎなかったが、フランスへの旅を機として形をととのえてきた文明批評の端緒は、やがて『夜明け前』の主題を形成する思想の核であった。
 同時に、十九世紀日本の考察というモチーフの発見は、藤村にとってあらたな意味を帯びてよみがえってきた父の発見と表裏一体であった。往復の航海記『海へ』の第二章「地中海の旅」は〈父を追想して書いた船旅の手紙〉というサブタイトルが付されている。フランスへの旅は藤村に、父との出会いも用意したのである。その父はいっぽうで〈御生涯のなやましかった〉、おなじ血につながる宿命のひとであると同時に、平田派の国学に心酔し、〈外来の思想を異端とせられた〉思想家でもあった。父の斥(しりぞ)けた異端の地への旅をいそぐ藤村の心情は複雑だったにちがいない。
 フランスに旅だつ直前に、藤村は「幼き日」(のち「生い立ちの記」と改題)という短篇小説を書いている。ある婦人(モデルは親友の神津猛の夫人てう)にあてた書簡体で、母のない〈自分の子供らを見て、それのなすさまを眺めて、それを身に思い比べて〉自分の少年期を回想するという体裁の作品だが、藤村は後年の回想で、小説の意図をつぎのように語っている。

 《わたしはよく自伝的な作者のように言われているのがこれはただ自伝の一部として書こうとしたものでもない。自分の生命の源にさかのぼろうとする心を起した時にこれが書けた。》

 実姪との不倫の愛という、人間として最大の危機に遭遇したとき、藤村の心情はおのずから〈自分の生命の源〉をさぐろうとするつきつめた決意にみちびかれる。そして、運命の根源を追いもとめる眼に、幼い日の哀歓と、父とともにいた故郷の風物が幻のように見えてくる。「幼き日」の描写の中心がわが子の日常を離れて、作者自身の幼年時代と馬籠の風土や人情の追想に移っていったゆえんである。現にかく在(あ)る自己から、自己をかく在らしめたものへの遡行である。その未完のモチーフが異国にまでもちこされたとき、不倫の罪を自責する懊悩の底で、自己の生命の真の根源としての父、運命の目に見えぬ司祭神としての父が見いだされた。『夜明け前』の主題に即していえば、他方で伝統の自覚があり、同時に、伝統を受けつぐ最小単位としての父と子の意味の発見があった。藤村はこうして自己凝視の果てに、あくまでも凡常なエゴに執しながら、歴史への通路を発見したのである。
 藤村が『新生』で大胆な告白を試み、危機に瀕した生を救ったのは大正七年から八年にかけてである。それにつづく長い沈黙を経て、大正十四年に入ってから、藤村はふたたび「成長と成熟」「前世紀の探求」などの随筆で、真淵のいう〈荒魂〉と〈和魂〉に思いをひそめ、国学者の〈保守的な精神は、吉田松陰らによって代表さるるような世界の探求の精神と全く腹ちがいのものであったろうか〉という感想を書きとめた。

 《好(よ)かれ悪しかれ私達は父をよく知らねばならない。その時代をよく知らねばならない》(「前世紀の探求」)

 このとき、『夜明け前』はすでに構想の第一歩を踏みだそうとしていた。前述のとおり、小説の準備のために、藤村がはじめて馬籠を訪れたのは、大正十四年である。』

夜明け前と島崎藤村の足取り3へ続く

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