西欧文学と島崎藤村2

西欧文学と島崎藤村1東京堂から1961年に出版された「明治大正文学研究 特集 島崎藤村研究」から伊狩章氏による「藤村の比較文学的考察」は海外文学や田山花袋らとの比較の観点から島崎藤村を捉えた内容です。以下、『』内の文章は左記の論文からの引用となります。また、掲載にあたって、全て現代語訳しております。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

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『又、当時藤村にとって花袋は良き文学の友であると同時に、小説創作の上では先輩であり指導者であった。後には立場が逆になったが、新体詩から散文に移らんとする藤村がまず指導を求めたのは花袋だった。「大主観の御抱負の……せめてはその清泉の一滴をばおぞき友にも分ち賜え、」などという花袋宛の書簡がその真実を物語っている。少なくとも藤村は花袋の小説に対して相当の関心を持っていたー或いは、自己の小説の範としたと考えられる。逆に花袋が小諸の藤村を「よく手紙で激励してやった」(東京の三十年)と言っていることも之を裏づけよう。
 当時花袋は「老農」(一九○一・一○・小天地)に続いて「村長」(同年・一二・文芸倶楽部)などとその写実的傾向を好評されている。藤村がこれら諸作を読んで何らかの感化を受けたであろう事も想像されるのである。
 さてこれら花袋の近作は実はモーパッサンの殆ど翻訳に近い翻案だった。花袋はこの前後モーパッサンの短篇を四篇翻案している。

 「老農」ー“Old Amable”(原作“Père Amable”)
 「村長」ー“Little Louise Roque”(“La Petite Roque”)
 「老子爵」(一九○二・九・文芸界)ー“One Evening”(“Un Soir”)
 「大旦那若旦那」(一九○三・七・太平洋)ー“Hautot Senior and Hautot Junior”(“Hautot Père et fils”)

 いずれも「アフター・ディアナ」版収載のもの全く翻訳といっても良い程度なのであるが、当時之がモーパッサンによると見破った批評は殆どなかったらしく、わずかに「小天地」(同年十月)が「『老子爵』はモーパッサンの翻案ならん」と気付いている程度である。藤村も恐らくは知らなかったのではなかろうか、とにかく、「村長」の強姦殺人、「老農」の不貞な嫁と舅の自殺、「老子爵」の姦通などの諸主題が藤村に影響したことは充分に考えられる。

 2、モーパッサンの感化

 やがて藤村は自ら、他の西欧作家のものと共にモーパッサンを買うまでに至る。(一九○二・四・書簡五二)花袋の感化と、文壇の風潮に乗ぜんとする気持、この二つの理由から藤村はその散文作家としての出発をモーパッサンによることは寧ろ当然だったのである。
 彼は「アフター・ディアナ」版の第三巻から二篇をとり、之を夫々粉本とした。「パラン氏」を「旧主人」に、「蝿」を「爺」に換骨したのである。尚、之は筆者の創見ではなく、既に花袋が「近代の小説」その他で指摘している。
 先ず「旧主人」の内容の、伝えられているモデル問題の存否はともかく、中心となる姦通という主題女中の密告などの構成は何によったであろうか。モデルになる事件が実際にあったとしてもそれを小説化せんとする創作契機は何であろうか。考えられるのは「アンナ・カレーニナ」と「ボヴァリー夫人」である。前者は「千曲川のスケッチ」其六にも引用されており、藤村が之を読んでいた事は確実だが、後者はこの頃までに読了していたか否か明らかではない。この二作なども暗示を与えたかも知れぬが、最も直接にはモーパッサンの「パラン氏」の感化によるものだった。「パラン氏」の内容は、

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 ー不貞を働いている若い妻がある。夫は近所の物笑いになっている。見るに見かねた女中が真相を教える。夫は苦悩した果、妻を偽って一度外出し、間もなくひそかに帰宅し、遂に妻が姦夫と接吻している現場をおさえる。その時の妻の蒼白な顔!ー

 「パラン氏」にはこのあと心理的な復讐の部分があるのだが、とにかくこれが「旧主人」の源泉であることは間違いなかろう。引例は省略するが「旧主人」の細部「パラン氏」と酷似する描写が数ヶ所にあることも付け加えよう。
 尚「旧主人」の二ヶ月前に発表された花袋の「老子爵」は前述の様にモーパッサンの「一夜」の翻訳であるが、その内容も「夫が姦通の場をうかがう」構成で、これも又、間接に「旧主人」を書かしめる一因となったかも知れない。
 又、同じ様なモーパッサンの姦通物によったものとして「老子爵」が官憲の眼を逃れ、「旧主人」が発禁になっていることは、花袋と藤村の小説技術の比較という点から興味深い事実と言える。(「老子爵」の方が内容的にひどいにも拘らず……)
 次にモーパッサンの感化著しいものは「爺」(一九○三・一・小天地)である。

 ーお島という多情な女が一人の男の子を生む。話手をはじめ、その叔父、親戚の男という風に、その男の子の父親は夫々自分だと思っている。良く調べるとお島と関係のあったのは五人もあったことがわかる。お島は吾々を「花に集まる蜜蜂のように」愛したのだ。吾々は五人で「お島のために一個の活きた記念」を作ったのだ。ー
 モーパッサンのは¨Fly”(原作Mouche)「蝿」というので、

 ーある男が語る。若い頃セーヌ河で仲間とボートを漕いだ楽しさは忘れられない。吾々五人の仲間の間に或日、蝿という仇名の娘が入って来る。多情な無智な女で「腐ったものに飛び寄る蝿」の様に男と関係する。その中妊娠するが五人の中、誰が父親だか分からないので、皆の子供ということにする。ところが死産して、女が余り悲しがる為、皆で又もう一人作ることを決めるー

 この梗概(こうがい)だけを対照しても藤村が「蝿」から換骨奪胎したことは確実であろう。ただ「爺」に加えられている父性愛の副主題なのであるが、これも「蝿」の収載されている「アフター・ディアナ」版第三巻に「父親」(The Father)という似たような構成のものがあり、これなども又多少暗示を与えたのではなかろうか。
 尚すこし後に上梓した「新片町より」にブウルヂエのモーパッサン論の一節をあげている中で「蝿」についての箇所を引用していることも附言しよう。
 「藁草履」「老嬢」には直接の粉本は見当たらない。しかし前者の、強姦、発情した馬、妻を殴殺する夫等の題材、後者の色情狂の構想など、それらがモーパッサン的な主題であることと共に、それらを主題にとりあげた創作契機の意味でもモーパッサンの感化があ見られるのである。又、「藁草履」「老嬢」の自然描写や細かい表現上のニュアンスなど、モーパッサンの田園物その他の感化が判然と見られるのは花袋の指摘する通りだ。』

梗概(こうがい)・・・あらすじ、戯曲や小説を短くまとめたもの。

西欧文学と島崎藤村3へ続く

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