西欧文学と島崎藤村4

西欧文学と島崎藤村3東京堂から1961年に出版された「明治大正文学研究 特集 島崎藤村研究」から伊狩章氏による「藤村の比較文学的考察」は海外文学や田山花袋らとの比較の観点から島崎藤村を捉えた内容です。以下、『』内の文章は左記の論文からの引用となります。また、この論文も今回で最後となります。最後まで、ありがとうございます。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

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4.「うたたね」の問題
 さて「旧主人」以下の作がモーパッサンの感化によるということは、藤村文学全体に対してどの様な意味をもっているだろう。
 その事に連関してその処女作「うたたね」を考えてみる。これは藤村の実兄をモデルにしたと伝えられている。作中、銃殺される小一が実兄でその作中の扱い方が苛酷なところから島崎家に何か秘密があったかのごとき見方も行われている。
 果してその様な事実の存否はともかく、この源泉はゴーゴリの「タラス・ブーリバ」ではなかろうか。

 ー隊長ブーリバが、恋のため味方を裏切った息子を自ら銃殺する。殺したあと感慨にふける。最後にブーリバも又惨めに死んでゆく。ー

 之と「うたたね」の、姉川中佐が息子小一を銃殺にする箇所以下悲惨な結末までの暗号、又、前年の小一の恋愛の箇所や成人して帰宅する場面の描写など、そのまま「タラス・ブーリバ」に見られる処である。
 「タラス・ブーリバ」は「うたたね」の前一八九五年八月徳富蘆花により「労武者」(「国民新聞」連載、翌年「国民小説」に再掲)として翻訳されている。藤村は之によったのではなかろうか。
 また、島田謹二教授の研究に、
 「『千曲川旅情の歌』の中にはゴーゴリの『タラス・ブーリバ』と同じ表現を借りている箇所がある。彼の友人上田敏はゴーゴリの作品を訳しているが、藤村はその訳文を愛読して……(中略)……その影響が及んだものと考えられる。」(「学苑」一九五○・二「現代文学と西欧文学」)
 とあるごとく或いは上田敏に教えてもらったか。それとも全く偶然の暗合か、断する訳にはゆかぬ。
 仮にこの考察が許されるとするならば、最近よく問題にされる藤村のコンプレックスを解決する鍵として引き合いに出される「うたたね」や「旧主人」以下の習作の意味も又再考されねばならない。これらの諸作はむしろ藤村初期の西欧文学の感化による習作という程度に軽く取扱うべきで、そこに重々しい意味をつけて解釈するのはいかがなものであろうか。藤村文学全体を通して、西欧文学の影響が以外に広汎なことと連関してことに問題として提出しておく。

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 5.附言、その他の比較考察
 藤村におけるモーパッサン以上の初期短篇における題材や様式上の感化で終わったのではなく、以後彼の文学と生活のための重要な思想的根拠となっていることも考察に値する。
 例えば「春」発表の翌年一九○九年四月、「モーパッサン全集」のブールジェの序文に感歎し
 
 ースタイルの模すべからざるは肉体の模すべからざるが如くである。モーパッサンの文章が有するあらゆる自由と精緻と大胆とは、彼の心が示すリズムであって、やがてまた彼の肉体全部の姿であろうー(文章世界「新片町より」)
 
 と早くもリアリズムの第一段階であるスタイルの意識を確立し、続いて同年八月発表した「モーパッサンの小説論」(二六新聞、八月十九日より五回に分載)における、彼のモーパッサンの作品とリアリズムに対する意見は、その理解とモーパッサンへの深い傾倒を立証している。
 以下彼の多くの感想の中に引用されている外国作家の中で、モーパッサンに関するものが最も多いこと、更に後年発表した「トルストイの『モーパッサン論』を読む」の五十枚に及ぶエッセイは、いかに其の書及びモーパッサンが藤村愛読の書であったかを自ら語っていることなど、いずれもこの立論を裏づけている。「新生」執筆の動機にルソーのそれと共に「精神の統一を欲して、それが得られぬ人の苦しい叫び」である「水の上」の感化を認めると言っても強弁には過ぎまい。
 こう見てくると、自己の文学の中にモーパッサンを摂取同化した作家は、花袋、荷風、に続いて藤村であったと結論し得よう。

 藤村と西欧文学との関係について尚二三付加えると、初期「文学界」時代の考察は既に矢野峰人教授の著作「文学界と西洋文学」に考証された通り、その詩文には主としてシェイクスピアを中心とする英文学の影響が明らかに見られる。又、「若菜集」以後の抒情詩についても、島田謹二、吉田精一両教授の諸論文に考察されたごとく、シェレー、キーツ、の感化が立証される。その他昇曙夢氏の考察にかかるツルゲーネフの影響、瀬沼茂樹氏の指摘された「新生」第二部の手法とジッドの「贋金づくり」のそれとの暗号なども一応考察に値しよう。
 最近、東大比較研究会の新聞報などにも藤村の比較研究が見られその他詳細に検討するならば他の自然派作家と同様に藤村においても西欧文学の影響は意外に広汎に及んでいるであろう事が想像される。ここでは紙数も今後を期したい。

 【註】尚、藤村がロシア文学的方向に転換した理由として、当時の文壇に次の様な現象があったことも一応考えてよかろう。
 「……一時若手の書生間に重宝がられて風船玉のごとき訳文、その所この所に、ころがりたりしモーパッサンもこの頃は漸く厭きが出たと見えて、セーンキーチとなり、更にゴルキーとなり、瘋癲描写ゴルキーの作は餓えたる人のパンのごとくに歓迎せられぬ。賀すべきは刻下文壇の風潮なる哉……」(一九○二・八「帝国文学」批評欄)

 (「小説の実際派を論ず」については天理大学、大西忠雄教授に御示教頂いた。教授にはこの他モーパッサンの比較研究上多くの御示教を頂いた、厚く御礼申し上げる。
  又、「花袋とモーパッサン」「荷風とモーパッサン」に就いて筆者は既に発表したものもあり、紙数の関係もあって全て省略した。)』

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