島崎藤村と西欧詩1

東京堂から1961年に出版された「明治大正文学研究 特集 島崎藤村研究」から石丸久氏による「若菜集」から「落梅集」へー島崎藤村の詩に内在するものの一面ーは海外文学がどのように島崎藤村の詩に影響を与えたのかを解説した内容です。以下、『』内の文章は左記の論文からの引用となります。また、掲載にあたって、全て現代語訳しております。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

「若菜集」から「落梅集」へ
 ー島崎藤村の詩に内在するものの一面ー

             石丸久

 内容の点からみると浪漫主義から自然主義への展開、形式の上からいうと詩からスケッチをへて小説へのうつろいー島崎藤村の半世紀にわたる文学のいとなみをやはりそのようにあとづけることは大局において異論のないところであろう。自らが「私の文学生涯に取っての処女作とも言うべきものだ」と語る「若菜集」(明治三○年八月)をはじめ、「一葉舟」(同三一年六月)、「夏草」(同年一二月)および「落梅集」(同三四年八月)から捃摭(くんせき)して「藤村詩集」一巻を編むにあたり、この詩人が「わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの巻とはなれり。われは今、青春の記念として、かかるおもいでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまえに捧げむとはするなり」とその序を結んだ明治三七年。この年、すでにして「旧主人」(明治三五年一一月「新小説」)、「藁草履」(同年同月「明星」)、「爺」(同三六年一月「小天地」)、「老嬢」(同年六月「太陽」)などを公にした三十二歳の青年作家は、先づ作品「水彩画家」を「新小説」(一月)に発表し、そして日露戦争のただならぬ空気の中で「人生は大きな職場だ、自分もまたその従軍記者だ」と言っては自らを慰め励ましつつ稿を起し筆をついで最初の長篇「破戒」にとりかかったのであった。例えば、「悲曲、琵琶法師」(明治二六年一月ー五月「文学界」)や「朱門のうれい」(同年八月「文学界」)などの劇詩をはじめとして、さきにその名をあげた単行詩集に、ただ成立または発表(雑誌掲載)の年代のみからいえば、まさに収められるべくして収められていない作品は必ずしも少なくない。が、藤村は自らの文学的生涯の曙について後日次のように懐を述べているー「明治二九年の秋、私は仙台へ行った。あの東北の古い静かな都会で私は一年ばかりを送った。私の生涯はそこへ行って初めて夜が明けたような気がした。私は仙台の客舎で書いた詩稿を毎月東京へ送って、その以前から友人同志で出していた雑誌「文学界」に載せた。それを集めて公にしたのが私の第一の集だ。「若菜集」は私の文学生涯に取っての処女作とも言うべきものだ。その頃の詩歌の領分は非常に狭い不自由なもので、自分等の思うような詩歌はまだまだ遠い先の方に待って居るような気がしたが、兎も角も先従を離れよう、詩歌というものをもっともっと自分等の心に近づけようと試みた。黙し勝ちな私の口唇ははどけて来た」ーと。そして彼は、「若菜集」に採った「草枕」の第一○聯(れん)および第一一聯をここに引き用いて、

 心の宿の宮城野よ
 乱れて熱き吾身には
 日影も薄く草枯れて
 荒れたる野こそうれしけれ

 ひとりさみしき吾耳は吹く北風を琴と聴き
 悲しみ深き吾目には
 色なき石も花と見き

 と回想して、「私が一生の曙は斯様な風にして開けて来た」とつけ加えている。藤村が一生の曙は、ある意味で、吾国近代の文学の暁紅(モルゲンレーテ)でもあった。

    *

 とりわけ明治も二十年代は欧化主義と国粋主義の相対立して相克をくりかえした時代であって、多情多感にして清純な青年にはやはり一種の Sturm und Drang であった。この間に身をおいた北村透谷がいわゆる「東西の二大潮が狂湧猛瀉して相撞突するの際」にほかならない。彼に弟たる三才の国木田独歩は、明治三○年二月その「独歩吟」(「抒情詩」所収)に序して「遺伝において吾等天保老人の血を躰中に流し、東洋的情想を胸底に燃やす。学文において吾等欧州の洗礼を受けたり。吾等が小さき胸には東西の情想、遺伝と教育とに由りて激しく戦いつつあり。朝虹を望んではワーズワースを高吟すれども。暮鐘を聞いては西行を哀唱す」と述べた。印刷出版の業からいっても折から古典復興の時期に際会していたこの当時、そうした心情はいやしくも形而上のことがらに心をむける青年にはむしろ一般的なことであったと考えられるが、特に教育勅語対キリスト教の悶着かまびすしき間にあってミッション・スクールの業を卒えた島崎春樹らの胸のうちには、わだかまりのただならぬものがあったことと思われる。明治学院に藤村と同窓の戸川秋骨はある日大西操山(祝)が学寮に来って「悲哀の快感」と題する一場の講演をここおrみて彼ら文学青年に多大の感化を与えたことを語ってこう言っているー「聴聞して後、講堂を出ながら、私は藤村君とそれに就て、いろいろな感想を語り合った。私は島崎君に始めて話しかけられたという梯子段を、大西氏が降りて行く姿を、今でもありありと目前に浮かべる事が出来る。これもそれほど感銘を与えられた事件であったからであろう。大西氏はその話の内で徒然草の始めの一句と、またシェレーの「雲雀の歌」の一節「吾が最も美しき歌は、最も悲しき心を語るもの」というところを引用されたので、私共はすぐにシェレーの詩に趨ったものであった。私共若いものの心はそれほど感じ易く出来て居たのであろう。これが機縁となって、私共は当時其処の図書館にあった文人伝ー藤村君が訳したというその叢書ーの中のシェレーの伝に読み耽った」と。』

捃摭(くんせき)・・・意味は、拾い集める。

島崎藤村と西欧詩2へ続く

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